「新しさ」ではなく、1ミリでも「はみ出す」。音楽家・岡田拓郎が立ち上げる、いまここではない“別の時間”

取材・執筆:原田優輝
撮影:廣田達也
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

音楽は、演奏される瞬間、録音される過程、そして聴かれる場面のすべてにおいて、時間と深く結びついています。

バンド「森は生きている」のメンバーとして活動し、解散後はソロアーティストとして作品を発表しながら、プロデューサーや演奏者としても多くのミュージシャンの作品やライブに参加してきた岡田拓郎さん。2022年にリリースしたソロアルバム『Betsu No Jikan』は、コロナ禍に複数のミュージシャンがそれぞれの場所で録音した即興演奏を編集し、ひとつの時間軸として構成した作品でもあります。過去の音楽への深い敬意を持ちながら、自分が生まれていたかもしれない時代や、いまとは違う選択から生まれたかもしれない“別の時間”へ想像を広げてきた岡田さんとともに、音楽にまつわる時間とその周縁をめぐるものについて考えます。

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レコードに記録される時間、ライブで過ぎ去る時間  

音楽は、演奏することも、録音することも、聴くことも、時間と切り離せないものです。今回はその「時間」をテーマに、岡田さんの制作についてお話を伺えればと思います。まずは、作品をつくる時間をどこで区切るのか、締め切りについての考え方から聞かせてください。

自分の作品に関しては、最初から明確な締め切りを設けることはあまりなく、85%くらいまで進捗が見えたところで、締め切りを設定してもらうことが多いですね。ただ、バンド活動をしていた頃の2枚目のアルバムから、エンジニアリングやミキシング、最終的な楽曲への落とし込みまでを担うようになり、そこで時間を区切ることに意識的になりました。その時はかなり制作にのめり込んでしまい、ミックスのためにわざわざ伊豆まで行って、スタジオを3日間押さえたのですが、それも気に食わなくて全部ボツにしてしまったんです。結局家で作業することになったのですが、永遠に終わらないような感覚を覚えて、「何をやっているんだろう」と(笑)。

まるでサグラダ・ファミリアのようですね。

そうですよね。ただその時に、レコードというのは「時間が記録された」ものなんだと思ったんです。その時、その瞬間にでき上がったものがレコードなのだから、これは2014年当時の僕と、一緒につくっていたバンドのみんなの記録なんだと。そう考えることで踏ん切りがつき、制作を終わらせることができました。ある期間を区切ることによってしか生まれなかったアイデアや選択がたくさんあったし、期限があるからこそできることがあるということを感じました。

レコードをつくることが時間を記録することである一方、ライブの時間というのは瞬間的に過ぎ去っていくものであり、時間の感覚はだいぶ変わりそうですね。

そうですね。レコードは記録だと言いましたが、僕の場合はドキュメンタリー的に作品をつくる感覚よりも、映画などの創作物をつくるイメージを持っています。よく映画では回想シーンや同じ時間に別の場所で起きている物事が挟み込まれます。必ずしも時間は一つの方向に向かっていく一本の線として捉えるわけではなく、そうした編集によってストーリーを構成していきます。ライブでもそうした編集感覚を持って演奏することもできますが、何度も編集を重ねることができる録音とはやっている時の感覚は全然違いますね。

岡田さん自身は、ライブよりもレコードをつくる方が性に合っているのでしょうか?

そうですね。石橋は叩いて渡りたいのかもしれないです(笑)。これまで僕が音楽活動において力を注いできたことは、人前で演奏することではなく、40分の時間を音でつくることでした。だから、自分はレコードをつくる人間だという意識を強く持っていますね。

例えば、こういうインタビューでも、帰ってから「あのことを言っておけばよかった」とか、「余計なことを言ったな」と思うことがあるんですよね(笑)。そうした一回性のスリリングさも好きなのですが、ライブなどではそれゆえにやりたいことを躊躇してしまうこともある。

一方で録音物というのは、それを出したことによってどういう結果になるのかを何度も検証し、検討することもできる。その上でファースト・アイディアに戻ることも十分にあり得る選択肢です。

いまここではない、“別の時間”への想像力 

『Betsu No Jikan』(2022年)や『Konoma』(2025年)というアルバムのタイトルやアートワークなど、岡田さんがつくるものには時間への意識を感じさせるものが少なくないように感じています。

『Betsu No Jikan』はとても良いタイトルだと思っているのですが、実は僕がつけたものではないんです。昔一緒にやっていたバンドのドラマーで、いまでも仲が良い増村和彦という男がいるのですが、彼は本読みだったので歌詞を書いてもらったり、曲のタイトルをつけてもらったりしていたんです。その延長でいまも夜中に電話して、3時間くらい何でもない話をした後に、「アルバムのタイトルを考えているんだけど」と言うと、いつも良い言葉をくれるんですよね。

『Betsu No Jikan』の制作中、メインストリームでもなく、アカデミックな実験音楽でもなく、ジャズでもないような、言わば行き場のないブラジルの電子音楽をコンパイルした『Outro Tempo: Electronic And Contemporary Music From Brazil 1978-1992』(2017年)というコンピレーションをよく聴いていたんです。増村が制作中のアルバムを聴いた時、「これは“Outro Tempo”やな。すなわち、別の時間や」と言ったんです。凄くシンプルな言葉だけど、あまり他で聞いたことのない言葉の組み合わせと感じて、「これだ!」と。

岡田さんは「別の時間」という言葉をどのように解釈したのですか?

そもそも音楽自体が非常に時間的なものですが、この時に初めて、自分はここではない時間と場所のことを常に考えていたということに意識的になったんです。

平成生まれの僕たちは、幼い頃のはじめの記憶に地下鉄サリン事件や阪神大震災のニュース映像が朧げにあり、社会の存在を感じ始める10代の初めに9.11が起こります。そして、社会に出る10代の終わりに東日本大震災が起こり、30代のはじめの働き盛りにパンデミックが起きました。そうした経験もあって、明るい未来をあまり想像できない世代だという感覚があるんです。

牧歌的だと言われる日本に生まれ育っても、常にこの先どうなるかわからない状況で生きてきたし、音楽に関してもリアルタイムで聴いていた日本の音楽にあまりフィットできなかったところがありました。生まれてきた時代を間違えたんじゃないかという感覚を持ったことがある人は少なからずいると思いますが、おそらく自分は、いまとは違う選択をすることで生まれたかもしれない別の時間や、自分が生まれていたかもしれない別の時代を想像するということを、無意識に音楽の中でやっていたのだと思います。それは場所についても同じで、僕はこんなにブルースを愛しているのに、なぜ日本に生まれたんだろう……と思ったりしていました。こうした逃避的と一言では言い切れない世代的なトラウマがあるのです。

そんな中で、いまここではない場所や時間への想像力が、間違いなく自分の音楽と結びついていたんだということを、「別の時間」という言葉を聞いた時に思いましたね。

『Betsu No Jikan』がつくられたコロナ禍は、各自が家の中で過ごしていたからこそ、個々に流れている「別の時間」への想像も働きやすい時期だったと思います。実際にこのアルバムは、さまざまなミュージシャンが演奏した素材を組み合わせてつくられています。それは言わば、それぞれの「別の時間」をつないでいくような作業だったように思います。

そうですね。パンデミックのさなかだったので、参加してくれたミュージシャンにリモートで即興演奏や直感的に感じたものを演奏をしてもらい、僕のところに届いたトラックをさらに編集することで一つの時間軸を構成していきました。そういう意味での「別の時間」もこのアルバムには流れていると思います。

「新しい」よりも「はみ出す」音楽をつくりたい  

先ほどブルースの話が出ましたが、岡田さんの作品からは、過去の音楽への深い理解や敬意が感じられます。一方で、制作する時に「同時代性」や「新しさ」はどのくらい意識されていますか?

例えば、70年代のブルーノートの音を完全に再現するようなことは面白いけれど、僕がやることではないなと思います。そこまでいくとフェティシズムの話になっていきますし、古い音楽が好きな人が陥りがちな部分でもありますよね。

一方で、完全にオリジナルでありたいということでもないんです。あるビートがどうやって生まれたのか、その背景を知った上でそれとは異なるアプローチをするのと、自分がオリジナルだと思い込んで誰も聞いたことのないビートをつくるのとでは、やっぱり大きな違いがあると思います。僕としては、「新しい」ものをつくるというより、1ミリでも「はみ出す」ということをいつも考えていますね。

「新しい」ではなく、「はみ出す」ですか。

「新しい」という言葉は、あまりしっくりこないんです。これも増村と20代の頃からずっと話していたことで、僕らの会話の中では「新しい」という言葉は使わず、「1ミリでもはみ出す」とはどういうことだろうと話していました。

「新しい」というと、線形に流れる時間の先端にあるものがイメージされます。一方で、岡田さんの「はみ出す」という感覚は、紡がれてきた歴史や文脈を引き継ぎながら、あり得たかもしれない「別の時間」を立ち上げるような行為なのかもしれないですね。

強く意識していたわけではないですが、気づけば自分の作品はそうなっているのだと思います。『Betsu No Jikan』は、永遠に続くようなインドネシアのガムランの鐘の倍音、そこにジャズミュージシャンのトニー・ウィリアムスのような、複数の時間軸を同時に走らせたようなビート感覚を同時に鳴らせないかというところからつくり始めたアルバムでもありました。オルタナティヴなものでもどこかに伝統の記憶を残した音楽が好きなんです。

一方で、さまざまな歴史や文化的背景を持つ音楽を引用することは、ときに文化的な搾取や盗用につながる危うさもあります。

それは本当に難しいところですよね……。実際に僕も、自分の音楽が関係のない文脈に結びつけられることに腹を立てた記憶があります。ただ、人は物事を自分が経験してきたものや記憶、知識と結びつけて認識するものですし、何かを生み出す時にも、それらによって想像力が推進される部分は間違いなくあります。

かつてアメリカには、アジアやアフリカ、南米、南の島など、まだ見ぬ異国の風景を夢見るようにつくられた「エキゾチカ」と呼ばれる音楽ジャンルがありました。多くの場合、音楽家たちが実際に異国を訪れたり、現地の人たちと共同制作したりしたわけではなく、あくまで想像の中の異国を音にしていたわけですから、現代の感覚で見ると文化盗用的な側面も強くあると思います。

ただ、最近読んだエキゾチカの本では、文化盗用的な側面にも触れたうえで、しかしそれらは単なるブラジル音楽やアフリカ音楽の焼き直しではなく、アメリカに住むアメリカ人がどこか遠くにある世界を想像してつくり上げた別の音楽と捉えることもできる、といったことが書かれていました。

異なる場所や時間にある音楽を単に借りてくるのではなく、自分の経験や記憶と結び直すことで既存の文脈からはみ出るものが生まれるのかもしれません。岡田さん自身は、自分の音楽がどのような文脈で聴かれることを望んでいますか?

いつも音楽をつくる時に考えているのは、レコード屋の店員さん同士が「どの棚に置く?」と会話するようなレコードにしたいということです。音楽が本当に好きな3人の店員がいたとして、それぞれが違う場所に置きたくなるような音楽でありたいと考えていますね。

音楽をしみじみ聴き、ボソボソ喋る時間   

インターネットや音楽配信サービスの恩恵で、あらゆる時代の音楽に簡単にアクセスできるようになりました。その良さはもちろんありますが、それぞれの音楽が生まれた文化や時代への理解やリスペクトが希薄になっているようにも感じます。

こればかりはどうしようもないですよね。僕自身、小学生の時からインターネットを使っていたし、そこから音楽を学んだ部分も大きいので、あまり悲観はしていません。むしろ、レコード屋に通っているだけでは、いまの僕の音楽はなかったと思います。ただ、レコード屋に足を運ぶと、誰も知らないような音楽がまだまだあるんだという気持ちになります。

新しい音楽もいいけれど、過去を振り返ればオーパーツのような音楽がこんなにもたくさんあるんだと、いつも驚かされるんです。もちろん、サブスクのプレイリストや検索でもそういうものと出会えることはあるかもしれませんが、知らない・買うつもりもないレコードをふと手に取って、それが今まで聴いたことも考えたこともないようなサウンドだった時、化石を発掘した人の気持ちがわかる感じがするんです。

そして面白いことにレコードは収録された音そのものが変わらなくても、時代や場所が変わっていくことで、その音楽の持つ意味合いや聴かれ方が常に変わってきました。音楽における再評価の流れは常にレコード文化と切り離せないと思います。

レコードは、そこに記録されている時間への想像力が働きやすいメディアなのかもしれません。

そう思います。例えば、たまたま買ったマイルス・デイビスのレコードが針飛びしたり、盤のコンディションによってトランペットの強いアタックがある箇所だけ歪んで強調されたりすることがある。レコードについている傷の音と実音が混ざった時の質感、歪み、タッチなどは、たぶん中古レコードを聴いていないとわからないと思います。中古レコードを買っているプレイヤー、エンジニアの音というのは明確にあると感じています。

レコードに記録された時間と、現在流れている自分の時間が重なることで生まれる豊かさもありますね。レコードが過去の時間への想像力を開くものだとすれば、サブスク全盛の現代において、音楽を聴く時間はどう変わっているのでしょうか?

『Konoma』をリリースする時、アメリカのIn Sheep's Clothingというレーベルが手伝ってくれました。彼らはレーベルの他に、メディアを持っていたり、日本のジャズ喫茶を彼ら流にアプローチしたリスニング・スペースを作ったりしていました。彼らの催しの一つでロサンゼルスの日本庭園を借りて、DJでもライブでもなく、毎回テーマを持って、のんびり音楽を聴くイベントを定期的にやっています。

僕のリリースの際も同様のイベントを催してくれて、『Konoma』のほかに、鈴木弘や稲垣次郎のような近年アメリカで人気のあるジャズ・ファンク作品をプレイしてくれました。現代の音楽を聴きながら、同時にオーパーツのような何故か今私たちの感覚にフィットする過去の音楽も体感できるような立て付けです。

驚くことにそういったイベントにぽっと300人とか集まるんですよ。そこでは、じっと聴いている人もいれば、ずっと喋っている人もいるし、踊っている人もいる。こんな形で音楽をシェアする方法があるんだとびっくりしました。

音楽や映画の意味を解き明かして、インターネットでシェアするようなことに虚しさを覚えている人たちに抜け道があるとしたら、それはこうやって外に出て、適度な音量で音楽を聴く時間を共有したり、気軽に喋れたりする場所なのかなと。こういう音楽の楽しみ方ができる空間と時間が素直に羨ましいなと思いましたね。

最近、ライブハウスやクラブとは違う、リスニングスペースが海外を中心に増えていると聞きます。音楽と向き合ってじっくり楽しむ時間が持ちにくくなっているなかで、そうした場が生まれていることには少し希望も感じます。

そうですね。意外と、しみじみ音楽を聴く時間ってないですよね。しみじみ聴いて、ボソボソ喋るみたいなことを自分もしたいし、そういうことを望んでいた人たちが、「ここにいたのか!」という感じでもっとつながっていける場所が増えると良いなと思いますね。

岡田拓郎(おかだ・たくろう)

音楽家

1991年生まれ。東京都福生市育ち。2012年にバンド「森は生きている」を結成。『グッド・ナイト』をリリース。2015年のバンド解散後は、ソロ・アーティストとしての活動、環境音楽の制作、即興演奏のほか、優河、安部勇磨など、他のミュージシャンのプロデュースやエンジニア、演奏者として数多くの作品やライブにも参加している。ギター、ペダルスティール、シンセなどの楽器を演奏する。2022年に即興演奏の編集で構築された『Betsu No Jikan』、2025年にはLAのレーベルTemporal Driftより『The Near End, The Dark Night, The County Line』をリリース。2026年には同じくTemporal Driftより『Konoma』をリリース。

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時間

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