時間の自律性を取り戻す。美学者・難波優輝が見つめる、“非同期”の時間の可能性

取材・執筆:原田優輝
撮影:衣笠名津美
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

あらかじめ立てられた予定や締め切りに沿って物事を進め、SNSを通じて「いま」をリアルタイムで共有する。現代社会では、時間を計画的に管理し、他者と同期させることが当たり前になっています。著書『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)で、締め切りを入り口に現代社会の時間のあり方を考察した美学者・難波優輝さんは、こうした直線的で締め切りのある時間は、人類が育んできた多様な時間感覚の中のひとつにすぎないと語ります。

そもそも私たちが当たり前だと思っている時間感覚は、どのようにつくられてきたものなのか。そして、誰かによって決められた時間に自分を合わせ続けるのではなく、異なる速度やリズムを持つ多様な時間を行き来することは、私たちの日常をどのように変えるのか。難波さんとともに、現代社会における時間のあり方について考えます。

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締め切り的な時間は西洋的? 

難波さんの著書のタイトルにもなっているように、現代社会は締め切りを守ることが要求される直線的な時間が支配的になっています。そこにはどんな歴史的背景があるのか、改めてお話しいただけますか?

人類の文化の中には、時間に関するさまざまな捉え方があります。西洋のキリスト教やユダヤ教には、世界に終わりがあり、遠い未来にすべての救済を待つような世界観があります。これはまさに、「THE・締め切り」的な世界観ですよね。日本は西洋や中国などさまざまな文化の影響を受けていますが、こうした最後の裁きを待つような世界観は、もともとあまり馴染みがなかったように思います。

AIによるシンギュラリティにしても、ある瞬間を超えるとすべてが変わるという世界観ですよね。直線的な時間、締め切り的な時間は西洋文化圏では自然に思えるかもしれませんが、我々からすると明治維新以降に始まる、取ってつけたような時間感覚なんじゃないかと思うところがあります。

直線的な時間に対して、循環する時間というものが対比的に語られることも多いと思います。

直線的な時間も循環する時間も、それ自体は等価値だと思います。ただ、取引や決済がある資本主義には、いつまでに何かを終わらせるという直線的な時間感覚がフィットしています。でも、人類はずっと締め切りがある直線的な時間を生きてきたわけではなく、祭りや農耕にはまた違う時間があります。とくに西洋以外の文化圏の人たちは、現代の資本主義的な線形の時間に少なからず違和感を抱いているんじゃないかと思います。

そう考えると、私たちが当たり前だと思っている時間は、数ある時間文化のひとつにすぎないとも言えそうですね。

そうですね。それに、どんな時間を楽しめるのかも人によってかなり違うと思っています。それは食の好みのようなもので、期限に向けてチャレンジしたり目的を達成したりすることが楽しい人もいれば、もっとぼんやりした、ゆっくりした時間が好きな人もいる。そこに良い悪いはない気がしますが、いまの社会は締め切りやノルマのある時間を前提としていて、それを楽しめる人が活躍し、そのルール自体を拡大再生産していく社会の仕組みになっています。

逆に、みんなが締め切り的な時間を気にしなくていい社会は想像しにくいですが、本当は待てば待つほどいい社会だってあるかもしれない。農業などは、成長速度を上げることはできても、それによって土が痩せていく可能性もある。そこでは「待つ」という時間感覚も必要になりますよね。

難波さんは本の中で、締め切りのあるプロジェクト的な時間の外部にあるものとして、ゲームやギャンブルなど「遊びの時間」についても論じていますね。

人間にはゲーム的に難しいことを達成していくのが好きな人もいれば、不確実性や劇的な変容に賭けるギャンブル的な生き方を好む人もいます。現代社会は、資本を増やすというゲームを楽しめる人がどんどん出世するようになっている。一方で、ギャンブル的な世界を生きたい人は、株式投資などで才能を発揮できるかもしれませんが、普通に働こうとしたときにギャンブル的な仕事は減っている気がします。

例えば、昔の漁業はかなりギャンブル的だったんじゃないかと思うんです。でもいまだと、養殖のほうが安定するし、獲れば獲るほど海洋資源は減っていくのでサステナブルではないという話になりますよね。少し話が逸れるかもしれませんが、需要が増えるほど売ったほうがいいという資本主義的な考え方は、資源が再生する時間とは噛み合わないところがあります。そう考えると、地球の時間感覚と人間の時間感覚がズレてしまっているとも言えそうです。

複数の時間を生きる「時間的健康」     

人によって時間感覚が異なるとすると、そのズレがすれ違いや不寛容につながることもありそうです。一方で、相手の時間感覚に合わせることに苛立ちやストレスを感じてしまう人も少なくないように思います。

そのズレをどう合わせられるのかは自分でも考えることです。仕事では「締め切り」という強権を発動して、みんなの時間を合わせることになりがちですが、日常生活ではもっと緩やかに時間感覚を合わせることを、割と自然にやっているようにも思うんです。

例えば、子どもは1分1秒でも多く遊びたいはずなのに、おじいちゃんおばあちゃんの家に行くと昼寝をしたりするじゃないですか。これは、ゆっくりした時間感覚に自然と身体が寄っていっているからだと思うんですね。実家で親といるときでも、時間感覚の違いに苛立つことはあるかもしれませんが、「いま自分は時間の密度の違いを味わっているんだ」と考えられると、すごく楽しい気もするんです。時間の感覚は年代によって全然違って、歳を重ねるとゆったりした時間になったり、逆に幼い子どもは密度がパンパンに詰まった時間を過ごしていたりする。そういう異なる時間感覚に触れることで、自分が日々成功したり失敗したりしながらやりくりしている時間を、相対化できると思うんですね。

異なる時間感覚を持つ人と関わることで、自分自身の時間感覚が変わることもありそうですね。

線形の時間と循環する時間の2つで考えてみても、人はそのバランスを取ろうとしているのかなと思うんですね。偏見ですが、猫を飼っている人って真面目な人が多い気がするんですね。

猫の時間というのは、循環すらしていない、どろっとした、楽しげにまどろんでいる時間に感じるんですね。だから、締め切りを守って真面目に働いて疲弊している人が、猫の時間に癒されるということはあるんじゃないかと思うんです。そこには締め切りの時間とはまったく違う時間が流れているんですよね。猫に仕事を邪魔されているのに、それをうれしそうに話したりするじゃないですか。そういう意味でも、自分の好きな時間にひたすら潜り込むだけでは、「時間的健康」が保たれない感じがするんですよね。

「時間的健康」というのはいい言葉ですね。

いま思いついた言葉でした。自分もものを書く仕事とは別に、こうしてインタビューを受けたり、会社員としてクライアントワークに取り組んだりするのは好きなんですよね。それは、自分なりにいつでも退却できるゲーム的な時間に参与している感覚があるからだと思います。そうやって違う時間に少し入ることで、自分の時間的健康が保たれる気がします。
人間というのは難儀な生き物で、複数の時間を渡り歩いていかないと、おかしくなってしまう感じがするんです。それでいうと、自分は最近競馬にハマっています。大きな金額を賭けるわけではないですが、ギャンブル的な時間を過ごすことがすごく面白いんです。十数頭の馬が一緒に走って、1〜2分で決着がつき、鼻や頭の差で配当が変わるのですが、どこか時間が溶けていくような感じがあるんです。自分にとってはすごく危険な時間なのであまり深入りはしていませんが(笑)、そういう時間を味わうことは人生を豊かにしてくれるとも思う。

自分の中にある複数の時間を楽しみながら、友人や知人などの時間とどう合わせていくのか、そうした想像力を働かせることも幸せなことだなと思ったりしますね。

誰が私たちの時間を決めているのか   

現代の時間感覚を決めているものとして、テクノロジーの存在も大きいと思います。SNSのタイムラインも時間が視覚化されたものだと言えますが、近年はアルゴリズムによって操作されている側面があります。

SNS的な時間、アルゴリズム的な時間というのは、強烈に同期する時間だと思います。あらゆる人の注意を一斉に向けて、「この話題について怒れ」「喜べ」「炎上せよ」といった具合に注意を高め、投稿を増やしていく。そのようなかたちで時間を操作されている感じがありますよね。自分自身としては、人と時間を合わせたくないという思いが強いんです。

最近出した『本とは何か』(新潮社)という本では、雑誌ならではの力について、「想像の時間帯」をつくることだと書いたんですね。その時々の流行がパッケージされている雑誌は、それを手にする人たちと時間を共有できる一方で、いつ開いても閉じてもいいので、その時間を独立して楽しむこともできるという、程よい時間との距離感があります。

一方でSNSは、ひたすら時間を同期させて、タイムラインの中に自分自身まで埋没させていく。素直に言うとうっとうしいというか、「なんでやねん」と思います(笑)。自分の時間の権利、いわば時間の自律性が損なわれている気がするんです。SlackやLINEのバッジ、既読のような機能も人の時間を縛るものであり、時間の自律性が奪われていく感覚があります。

そう考えると、時間は権威や制度とも強く結びついていますよね。アルゴリズムによって操作されるタイムラインから、国家によって記録される歴史まで、誰が時間を編集し、共有するのかという問題があるように思います。

時間を司る力は、政治権力とも強くつながっています。時間は決して抽象的で中立的なものではなく、善意か悪意かは簡単に決められないにしても、誰かによって決められている。だからこそ、「時間の自律性」をどう取り戻せるのかは、知恵を絞って考えたいところですよね。

夕方5時になると「夕焼け小焼け」の放送が流れて、「子どもは家に帰りましょう」と促されますが、これは一見親切なようでいて、大人から子どもへの「ここから先はもう子どもの時間ではないですよ」というメッセージでもあるわけです。みんな当たり前のように受け止めていますが。「日常の中から時間の政治性を見つけてみよう」というワークショップがあったら面白そうですよね。

時間について考えることは、社会そのもののあり方を考え直すことにもつながりそうです。

そうですね。もっと、人それぞれが違う時間を生きていられる社会になっていくといいなと思います。夜勤の人にとって、朝にゴミを出すのは大変ですよね。みんなが同じ時間を過ごさなくてもよくて、それぞれの時間に起きて、買い物をして、ご飯をつくることができるといいですよね。それを可能にするには、住居や社会のあり方も変わらなければいけない。「住んでいる人同士で配慮し合いましょう」とは言うけれど、そもそも人によって違う時間を生きているという前提があまりないと感じます。それぞれが自分の時間を生きられるようにするためにこそテクノロジーを使うという考え方もあるはずですよね。

「死者」や「未者」と共有する非同期の時間    

SNSやアルゴリズム、あるいは雑誌の話も出てきましたが、人と共有する時間にはほかにどんな形や可能性が考えられるのでしょうか。

少し変な話になるかもしれませんが、自分は死者と時間を共有することがすごく好きなんです。それは本や作品という形だったりするのですが、自分は画家のマネが好きなので、残された絵を見ながら「この人は一体何を考えていたんだろう」と想像するのがすごく楽しいんですね。

150年以上前に描かれた作品を通じて、もうこの世にはいない人と時間を共有することは、とても豊かなことだと思います。自分の祖父母もすでに亡くなっていますが、神戸という街でどんな時間を過ごしたのかを考えると、すごくウキウキするんですよね。あるいは、1年くらい会っていない人も極端に言えば死者に近い存在かもしれません。いま何をしているのかわからない相手に対しても、言葉をかわしたりメッセージを送る以外の仕方で時間を共有しているような気がするんです。

もちろんDiscordなどをつなぎながら、お互い作業するようなことも素敵な時間だと思いますが、一方で非同期の時間の共有の仕方はまだあまり探索されていない。だからこそ、同期していない時間の価値をもっと考えてみたいと思いますね。

死者と時間を共有するという話になると、近年はAIで生前の本人を再現するという方向に向かいがちです。

仮に身近で亡くなった人のログをAIに学習させて、本人のように喋れるようにしようと提案されたら、自分は猛反対すると思います(笑)。死者を「現在」に限定してしまうような気がするからです。

現在のテクノロジーは、「すべてを現在にしてしまう」ものが多いと思うんですよね。“死者”に対して、まだ生まれてきていない人のことを仮に“未者”と呼ぶとすると、自分が本を書くときなどは、その未者たちに向けて書いている感覚が強いんです。

自分にとってのスターは夏目漱石なのですが、漱石からしたら、100年以上後にまったく関係のない多くの人が自分の書いたものを読んでいることになるわけですよね。それと同じように、自分とはまったく関係のない“未者”たちが、いつか面白く読んでくれたらいいなという気持ちがある。もちろん自分は現在に生きていますが、“死者”や“未者”のことをぼんやり考えながら文章を書く時間を楽しんでいるところがありますね。

他者との時間を考えるとき、現代人は「同期」するコミュニケーションに囚われすぎているのかもしれませんね。

柳田國男が残したエピソードで、ある村を訪れたとき、2本の木が寄り合うようにつくられた物見やぐらを見て、偶然こんな形になったのかと思ったら、村の人たちが未来を見越して、その形になるよう苗を植えていたことがわかって感動したという話があります。いまの我々は、現在の時間を更新していく能力はすごく高くなっている一方で、過去や未来について考える「時間のスキル」は少し衰えているのかもしれない。

「この仕事は未者のためになるのだろうか」「このサービスは未来の社会にとってどうなんだろう」と考えてみる。それはすぐにお金にはならないかもしれないけれど、人間にとってすごく幸福なことのような気がします。未者への配慮というと善意や責任の話に聞こえるかもしれませんが、自分にとっては単純にすごく楽しいんですね。たかだか100年くらいしかない自分の人生が、その先まで広がっていくように感じるんです。

非同期の時間を共有する関係は、同時代を生きる身近な人とのあいだにもつくれそうですね。

贈り物なんかもそういうものですよね。受け取ったら「ありがとう」とメールくらいはするかもしれないけれど、基本的には「楽しむのは各々でどうぞ」というものじゃないですか。

一方でご飯をごちそうするというのは同期性が高いので、忙しいときには面倒に感じることもあるし、家族や終電のことを考えると、むしろゼリーの詰め合わせのほうがうれしいなと思ったりする(笑)。受け取った側が楽しむタイミングを自分で選べて、非同期でも愛情や尊敬を表明できる。そういう時間の自律性が高い贈り方というのは、改めて面白いと思いますね。

同期してリアルタイムに反応が返ってくるものばかりではなくて、「良かったのか良くなかったのか、おいしかったのかまずかったのかよくわからないけど、まあいいか」と思えるような曖昧な時間の共有を味わう文化が続いていったり、もっと深められていったりしたら、自分はかなり幸せだと思います。

難波 優輝(なんば・ゆうき)

美学者 / 会社員

1994年生まれ。美学者、会社員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。著書に『物語化批判の哲学:〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社)『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)『性的であるとはどのようなことか』(光文社)『批判的日常美学について:来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』(晶文社)『本とは何か』(新潮社)『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)。

(特集)

時間

倍速視聴的なタイパ志向や、SNS・ショート動画的なコミュニケーションなど、「時間」を効率よく管理(あるいは消費)しようとする流れはもはや不可逆なものとなってしまったのかもしれない。では、いま私たちの時間に対する感覚に何が起きているのか、細かく分割された時間の中で失われたものを取り戻し得るのか。いま、改めて「時間」について、文化や歴史の大きな文脈、そして個人の実感とともに考えていく。

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