自分の物差しを超えた時間と出会う。ランドスケープアーキテクト・石川初が提案する、多様な時間の味わい方

取材・執筆:原田優輝
撮影:吉田和生
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

時計やカレンダーによって時間を区切り、効率良く管理することが当たり前になった現代社会。一方で、私たちを取り巻く自然や生物には、人間の思い通りにはならない、“ままならない時間”が流れています。その両者のあいだに生まれるズレこそが、ランドスケープデザインの対象になるとランドスケープアーキテクト / 慶應義塾大学環境情報学部教授の石川初さんは語ります。

計画できない時間と向き合うことや、人間が合意によってつくった時間と自然や土地に根ざした時間のあいだで引き裂かれる経験は、私たちの暮らしや風景の見方にどのような変化をもたらすのでしょうか。フィールドワークを通して都市や社会、環境を観察し、地上に現れる変化や痕跡に目を向けながら、そこにある知を探る「地上学」を実践する石川さんに、多様な時間との向き合い方について伺いました。

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計画された人間の時間と、制御できない自然の時間 

ランドスケープデザインを専門とされている石川さんは、時間をどのように捉えてこられたのでしょうか?

フィールドが屋外であり、生物を扱うことも多いランドスケープの世界の時間は、こちら側ではどうしようもない、“ままならないもの”としてあるんです。一方で、都市生活を送る我々には、合意によってつくり上げてきた時間というものもありますよね。

例えば、桜が咲く時期は人間があらかじめ計画できるものではなく、桜にとっての条件が揃った時に花が咲くわけですよね。桜がある程度一定の間隔で花を咲かせることを繰り返してきたのを手がかりに、「このあたりを春と呼ぼう」と人間が決め、カレンダーがつくられていったはずです。でも、いつのまにかカレンダーに依拠する時間が強大になり、あたかもそのシステムが先にあったかのように錯覚し始めてしまうんです。

本来、人間が計画する時間と自然界の時間は、必ずしも一致するものではないですよね。

その2つの時間のズレを調停するのが、ランドスケープデザインの仕事だと思っています。本来はランドスケープに限らず、建築でも土木でも、プロダクトでもグラフィックでも、計画通りにデザインすることはできないし、それによって人がどう変わるのかもわからないはずです。

ただ、ランドスケープは、建築などと比べて「最後までつくりきれない」ということがわかりやすいんですね。完成して引き渡す時には木がまだ小さくてひょろひょろしていて、良い感じになるのは3年くらい経ってから。だから私は、「仕上げは自然がやる」くらいに思っています。自然の時間と都市の時間のあいだで二重スパイのようなことをしているランドスケープデザインは、「計画された時間」と「地上で起こる時間」のギャップを考えやすい領域なのだと思います。

二重スパイというのは面白い表現ですね。

学生にランドスケープの時間を説明する時には、「ドラえもん的時間」と「サザエさん的時間」の話をします。ドラえもん的時間は、一方向に変化していき、取り戻せない時間です。のび太は一年中半ズボンを履いていて季節感がありませんが、未来からやって来たドラえもんは、少年時代が終われば未来へ帰ることが約束されている。その取り戻せなさやかけがえのなさが、あの漫画を切実なものにしている気がします。

一方、サザエさんの家族はいつまでも変わらず、小学生は小学生のままですが、四季の暦には異様なほど忠実です。お正月やクリスマス、お盆など季節感が強調され、繰り返される時間の中にいるように感じられる。どちらも私たちが日常的に生きている時間とはスケールが違うため、そうした時間は流れていないように思ってしまうけれど、「今年は桜が咲くのが早いな」と感じるように、リアルタイムの自分の時間とは異なる時間が流れていることに気づく瞬間があるんですよね。

自分の時間の「物差し」を探り当てる    

ランドスケープデザインは、コントロールできない時間を許容しながら未来を想像する行為だと言えそうです。一方で、石川さんが提唱されている地上学は、フィールドワークを通して都市や社会、環境を観察しながら、過去の時間の痕跡を読み取っていく営みのように思います。

地上学というのは、特定の学術分野と言うよりは、そちらに目を向けて知を探しましょうという「誘い」なんです。だから私は、自分の研究室の名前を「地上学研究」ではなく「地上学への研究」と称しています。

「痕跡」について話すと、ある環境の中に何らかの「痕跡」を見出すという行為は、言わば人間側の都合だと思います。我々は、変化しているものがあまりに長期的だったり、広域的だったりして、目の前で実感できない時にそれを「痕跡」と呼んでいるのであって、それは我々の物差しの限界に過ぎないんですよ。一方で、自分たちの物差しより短い期間で起こることを、我々は「変化」と言う。そのちがいに目を向けることで、普段は意識していない自分たちの時間が探り当てられるような感覚があります。

具体的には、どんな例が挙げられますか?

例えば、200年かけて大きくなった木があるとします。私たちは200年という時間を目撃できないので、切り株の年輪を「痕跡」として見ることしかできないですよね。でも、もし寿命が2000年ある人がいたとして、その木をずっと見ていたら、大きくなっていく様子を「変化」として捉えられるはずです。同じ現象がなぜ「痕跡」にも「変化」にも見えるのかを考えることで、我々自身の物差しがどのようなものかを探ることができるし、その物差しを持って多様な時間を味わうこともできると思うんです。

自分自身の物差しは固有のもので、変わることはないのでしょうか?

自分の物差しというのは、普段は自覚できないと思うんです。リアルタイムで経験している時間をどのように記述できるかというのは、かなり哲学的な話になってきます(笑)。でも、さまざまなものと自分の時間がずれていることは確かで、いろいろなズレの中に自分がいることを味わえればいいのではないかと思います。

「地上学」は、私たちの暮らしにおけるひとつの態度や姿勢としても捉えられそうです。

そうですね。例えば、都心に勤め、郊外の自宅に帰る生活では、その大半を都市のロジックによって合意されたカレンダー的な時間の中で過ごしていると思います。でも、例えばベランダでハーブを育ててみると、それとは少しずれたところに地上の時間があり、それに従って動いているものがあるとわかるはずです。

他者の時間に回収されない自分の時間があり、そのギャップを行き来していると感じられることはある種の慰めになるんですよね。2つの時間のギャップ自体は埋まらないけれど、その埋まらなさを自覚することが大事なのかなと思います。

異なる時間のあいだで引き裂かれる経験   

都市的な時間だけを過ごしていると、情報処理に追われて疲れてしまう感覚があります。一方で、田舎や自然の時間の方が豊かだと単純に捉えることにも違和感を覚えます。

田舎と聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれですが、必ずしも「自然」ということではなく、農村の方が土地に結びついた時間を強く感じるんですよね。農村には自然に依拠せざるを得ないものがたくさんあるので、気温や湿度がある状態になるタイミングを計って、一斉に何かをしたりするんですよ。

例えば、温泉に行くとおばちゃん同士が「もうトマト植えた?」と話していたり、農作物のタイミングについて情報交換していて、そこでは人間の時間と地上の時間の調停が行われている感じがするんです。一方、都市では一年中トマトを売らなくてはいけなくて、自然の時間に依拠していられないので、時間を制御する装置としてビニールハウスがあるわけです。

土地に結びついた時間の中にいると、暮らし方も変わるのでしょうか?

私の研究室で、大学の近所にある農産物直売所だけで1年間生活する卒業プロジェクトをした学生がいます。旬のものしか手に入らないので、冬には2週間くらいずっと食卓に大根が並ぶらしいんです(笑)。でも、その方が素材にふさわしい料理を考えるようになるので、料理の仕方もクリエイティブになるみたいなんですよ。都市的な時間と田園的な時間とのギャップに気づき、両者を行き来することで初めて見えてくる風景があるというのが面白いですよね。

ただ、そこで「人工的な時間に満ちた都市が悪い」という話にしてしまうと、それ以上のことを考えなくなってしまう。農村の時間をじっくり味わうことで、都市の時間を感じるセンサーも鍛えられるはずなんです。

都市には、どのような時間を見出せるのでしょうか?

都市には植物が少ないといっても雑草は生えてくるし、夏になればアスファルトは死ぬほど熱くなる。辺りを見回せば、側溝にはコンクリートが、建物のファサードには大理石や花崗岩が使われています。花崗岩は変成岩なので、そこには1億年くらいの時間が蓄積されているし、人工物のコンクリートも主成分は石灰岩です。「この花崗岩は中国産」「コンクリートは日本産かもしれない」といったことを考えていると、目の前の都市の風景に、地質的な時間や物質が移動してきた距離が見えてくる。そうしたことを想像するのが面白いんですよね。

学生の作品で、爪が伸びる速度と、太平洋プレートが日本へ移動する速度を比べたものがあるんです。爪の方が2倍くらい速いらしくて、爪が根元から先端まで伸びるあいだに、ハワイが日本へどのくらい近づいたのかがわかるゲージをつくっていたのですが、そのスケールの違いにめまいがするというか、自分の身体の時間と地球の時間のあいだで引き裂かれるような感覚があるんです。

異なる時間のあいだで「引き裂かれる」経験が大切なのかもしれないですね。

ランドスケープでは計画だけに終始することもできますが、実際には地上の秩序と我々の計画はズレていきます。そこに足を踏み入れ、我々自身が引き裂かれたり、一度ビックリすることが必要なのだと思います。地球の姿を想像するとき、人工衛星によって撮影された地球の写真を思い浮かべる人も多いと思いますが、地球全体は地上にいる自分には本来見えないはずですよね。

まずは、自分がわかっていないことに驚くことが大事ですし、そのうえで人工衛星が映す地球の表面と、ここにいる自分とをつなぐ方法を考えることが、デザインなのかなと思っています。

テクノロジーは現代人の感覚を変えるのか    

人工衛星やインターネットなどの技術によって、等身大の物差しでは捉えられないスピードやスケールの情報に触れる機会が増えているように感じます。

デザイナーの視点からは、日常的なスケールを超えて流れ込んでくる情報と、いかに折り合いをつけるかという言い方はできると思います。人間の身体と隔絶した現代社会のスピードやスケールを、等身大で感じられるものへ翻訳するということですね。ただ、そもそも日常的なスケールで起きていることでさえ、見知らぬものは多いですよね。そうしたものとの折り合いのつけ方は、昔も今もそれほど変わらない気もするんです。人間が処理できる情報量自体は昔から変わらないですし、現代人だけがとりわけ多くのことを理解するよう求められているともあまり思わないんですよね。

かつては、理解できないものやコントロールできないものに対して、畏怖を抱く感覚も強かったように思います。

願掛けやお参りなどもそうだと思いますが、人間は、自分では納得できないものや論理を超えたものを、「そちらのものだ」と思うことでつじつまを合わせたり、折り合いをつけながら生きてきたのだと思います。その相手が科学や技術なのか、神様なのかが違うだけで、前近代と近代以降でそれほど変わっている感じはしません。

現代社会に生きていると、テクノロジーが提示する世界を鵜呑みにし、物事を理解したような錯覚に陥ってしまいがちです。それによって、自分自身の物差しにも鈍感になっているように感じます。

テクノロジーや経済、都市的な社会によって、人間の感受性が損なわれているのではないかという見方に対して、私はわりと楽観的です。ホモ・サピエンスは何十万年という時間を生きてきたわけで、人間の生物的な特性は、数十年で簡単に変わるほど弱いものではないと思います。私の研究室に、タワーマンションの高層階で長く暮らしてきたことで、自然豊かな田舎で育った人に比べて何かが欠けているような負い目を感じているという学生がいました。

でも、本当はそんなことわからないですよね。その学生が、大規模なマンションの周辺で暮らす小学生を調査したことがあるのですが、子どもたちはセキュリティをくぐり抜けて建物に入り、非常階段やエレベーターを駆使して鬼ごっこをしていたそうです。用水路のどこにカエルがいるのかを熟知している田舎の子どもと変わらない解像度で遊んでいるんですよ。少し踏み込めば豊かな可能性が広がっていることに気づけるチャンスは、原始林でも、農村の畑でも、タワーマンションの中でも変わらないと思います。

多様な時間を「味わう」という姿勢

石川さんのお話からは、現代人の時間感覚に対する問題意識よりも、異なる時間をいかに見つけ、味わうかという楽観性を感じます。

そこには、都市と自然をフラットに扱いたいというランドスケープ的なメンタリティがあるのかもしれません。例えば、民家の軒先などでよく目にするアロエは、1月にオレンジ色の花を咲かせるのですが、なぜ冬に咲くかといえば、1月が原産地である南アフリカの砂漠の雨季にあたるからだと言われています。アロエは原産地の時間を引きずってきていて、遺伝子レベルの時差ボケが治っていないんです(笑)。私たちはそのおかげで、「南アフリカではいま雨季なんだ」と知れたり、「このアロエは、ここには永遠に来ないハチドリに向けてアピールしているんだ」と想像して楽しめる。そういうことを伝えたいと思うんですよね。

アロエを通じて、地球規模で動く時間を味わうことができると。

これまではハチドリがこの話のオチだったのですが、最近日本のヒヨドリが花の少ない冬にアロエが咲くことに気づいたみたいなんです。日本に来てから長い時間を経て、ようやく日本の鳥に蜜を吸ってもらえるようになって、アロエも嬉しいだろうなと(笑)。

石川さんとのお話を通じて、時間の捉え方がいかに多様であるかを感じることができました。

「時間」と言っても、捉える人によって歴史的な時間だったり地学的時間だったり、様々な時間のスケールがあります。ランドスケープをやっていると、そのあいだに風通しの穴を開けて、異なる時間を味わえるような仕方で接続したくなるんです。

『東京の自然史』(講談社)を書かれた地理学者の貝塚爽平先生が、東京の下町に高層ビルを建てられるようになったのは、基礎の杭を地下の硬い支持層まで打てるようになったからだで、つまり東京の高層ビルは数万年前の地面に立っているようなものだと述べておられるのを読んだことがあります。それを読んでから都心へ行くと、「この建物は数万年前の地面に立っているのか、凄いな」と感じます。これこそがランドスケープ的な見かただなと思うんです。

長い時間を、日常の感覚に引き寄せるということですか?

関東ローム層は、富士山や箱根の火山由来の鉱物が堆積してできた赤土ですが、1メートル堆積するのに1万年くらいという目安があるそうです。面白い話ですが、その時間スケールは私たちの日常感覚からはかけ離れています。それを日常につなげたいと思うんですよね。それで赤土の崖を年表に見立てて、この辺が宗教改革、この辺が十字軍、この辺がシュメール文明と付箋を貼ったことがあります。その写真を学生に見せるとみんな騒然となり、赤土の斜面にある階段を登るたびに1000年単位で時間を遡る感覚になるという学生もいたくらいです(笑)。

私たちはそういう状態を「呪いがかかる」と呼んでいます。もちろん、同じ速さで堆積したわけじゃないので年表はあくまで「比喩」なんですが、それでも一度知ってしまうと、もう以前と同じように地面を見られなくなるんです。普段リアルタイムの時間を生きている私たちは、そういう時間に思いを馳せる余裕は持ちにくいですが、ちょっとしたことでそれが滑り出てくる瞬間がある。それまで見ていた風景と、自分がいま呼吸をしている時間とのあいだに見通しが立つような瞬間をつくれるといいなと思いますね。

石川初(いしかわ・はじめ)

ランドスケープアーキテクト / 慶應義塾大学環境情報学部教授

1964年京都府宇治市生まれ。東京農業大学農学部造園学科卒業。鹿島建設建築設計本部、Hellmuth Obata Kassabaum Planning Group、株式会社ランドスケープデザイン設計部勤務を経て2015年より現職。研究室に「地上学への研究」という看板を掲げて、ランドスケープデザインの思考を応用する実践的研究に取り組んでいる。主な著書に『ランドスケール・ブック』( LIXIL出版、 2012)『今和次郎「日本の民家」再訪』(共著、平凡社、 2012。日本建築学会著作賞、日本生活学会今和次郎賞受賞)『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い ──歩くこと、見つけること、育てること』( LIXIL出版、 2018。日本造園学会賞著作部門受賞)など。

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