
『まだまだ大人になれません』(大和書房)、上坂あゆ美さんとの共著『友達じゃないかもしれない』(中央公論新社)など、他者との関係を見つめ、より良く生きていくことを考え続けている文筆家のひらりささん。日々の暮らしの中で実験を繰り返しながら、ときに受け取ったものを手放したり、与えすぎたことを反省したり、生活の試行錯誤が綴られたエッセイは、私たちも並走しながら日々を考えるような読後感があります。
モノとしての贈り物に限らず、誰かから贈られた言葉や関係性から受け取るものなど、生活における“贈与”というテーマでお話はさまざまな方向に向かいました。
イギリス留学時に彫った、自分への贈り物としてタトゥー
ひらりささんにとって、贈り物は身近な存在ですか?
もともと苦手なタイプだったのですが、女子校に通っていたので根強い贈り物文化が身近にありました。バレンタインデーもホワイトデーも、いわゆる「友チョコ」を用意して、渡し合うことが習慣でした。
20代になってからも贈り物が得意なタイプの友達が多くて……誕生日プレゼントをよく贈り合っていました。とても嬉しいのですが、満足させられるお返しを考えるのはなかなかハードル高かった。「相手の趣味に合うベストな贈り物をしなきゃ」と勝手にプレッシャーを感じてしまって、贈りあったりお祝いしあったりという関係を多数維持できる人は本当にすごいなと思います。
ちょっとした手土産を持っていくのはできるようになりましたが、節目にちゃんとした贈り物を送り合うような人間関係はだいぶ絞るようになりましたね。

相手の負担にならない贈り物の最適解、というのは見つけ出すのが難しいですよね。
あと、私はモノをなくしやすいんです。プレゼントもなくしてしまうから、そういう意味でも贈り物に対して苦手意識があるのかもしれません。なので、関係が長い友人は私のことを理解して、調味料や消えものなど失くしづらいものをくれるようになりました(笑)。
『まだまだ大人になれません』に収録されている「タトゥーは私を自由にする」では、「物はよくなくすが、タトゥーはなくしようがない」という理由でイギリス留学時に自分への贈り物としてタトゥーを彫られたことを書かれていましたよね。
留学に行った記念に、自分にいい買い物をしようと思ったんです。モノだとなくす可能性もあるので、ずっと憧れていたタトゥーを彫ろうと思いました。ロンドンでは同級生から先生まで、いろんな人がタトゥーを入れていたので自己表現の一環なんだな、と思ったことも大きかったです。
日本だと、ピアスやタトゥーに対して「親からもらった体に傷をつけるなんて」みたいな風潮がありますよね。自分の体なのに社会から規制された存在である。でも、理不尽なルールを踏み越えたい気持ちがあり、正しさへの抵抗の一つとして捉えるようになりました。
未だに、芸能人が入れたタトゥーに対してあれこれ言う人がいるように、自分の体だけれど社会から規制や同調圧力をかけられることは少なくないと思います。
日本では、身体がパブリックなものとして扱われていますよね。女優さんやスポーツ選手など表に出ている人はとくに、広告塔として社会的なイメージを守るためにタトゥーを入れないと聞いたことがあります。私は、中高が私服で自由な学校だったので好き勝手な服装と身だしなみで生きていたら、大学で「ブス」と言われてしまって。身体は世間のジャッジに晒されることを知り、公共空間に馴染んだ見た目でなければいけない、という意識を強く持っていました。
タトゥーを入れてから、心境の変化はありましたか?
自由であることに臆病だったのですが、ルールを踏み越えられるようになりました。たとえば、銭湯でタトゥーがOKかどうか調べたうえで、入浴することはあります。もちろん守るべきルールは守りますが、そもそも必要なのか問うべきルールと区別して考えるようになりました。
先日も、反戦デモでオタクがペンライトを振りかざしている様子が公式の規約違反だと議論が起こっていました。そもそもその規約は公式のサービス内に関するものでデモでのペンライト使用は特に規制されていなかったのですが仮に明確に禁止されていたとしても、個人の判断を優先するという決断も、私は全然ありだろうと思っています。
私もオタク出身なので、規約を引っ張り出してきた人の気持ちもわかります。オタクというのは「公式」というものに従って暮らしていて、ある種の行儀の良さがオタクの民度につながる。社会のつまはじき者だから、せめて感じよくしようという気持ちが強いのだと思います。ですが、フェミニズムを通じて知り合った人と対話するようになって“わきまえないこと”の大切さを考えるようになりました。そこでもらった言葉たちは、まさに今の自分を形成してくれる大事な贈り物だと思っています。

友人との健康的な距離感、そして「知人」という存在の大切さ
体験や言葉の贈り物は、ひらりささんにとっても自我を形成するうえで大事な存在でしょうか?
そうですね。ただ、私は人の影響を受けやすいタイプなので、密に関わってきた人の言葉や態度をすっかり吸収して自分のものにしてしまうことがあります。友人関係というのは、受け取ったり与えたりする関係がうまく回っている状態だと思うのですが、私の場合は一方的に受け取りすぎて、近づき過ぎてしまう。相手との距離感は、気をつけなければいけないです。
気持ちとしては、相手へのリスペクトや憧れから受け取っているので、決して毒ではないと思いますが、相手と健康的な距離感ではなくなってしまうことがあるのでしょうか?
集団によって食生活やメイク、価値観などが影響し合うのは当然のことで、一定程度までであれば健康的なことだと思います。ただ、そうした関係性の中で、相手のことを好きになって自分ばかり追いかけちゃうと、相手の相手らしさ、自分の自分らしさを損ねてしまうことがあると痛感する30代でした。
相手にNOと言われたらそれを受け止めたり、かといって100%鵜呑みにするのではなく、ちょうどいいと思うラインを引き直したり。自他境界の大切さを今も学んでいます。自分と向き合う時間も作りながら、心地良いだけじゃない関係に出会える場所も大事だなと思います。
著書の中で、バレエ教室に通われていることが綴られていました。教室では主婦や80代のおばあさんなど、これまで出会ったことのなかったタイプと交流できることが良い、と仰っていました。
友だちではなくて「知人」という存在も大事なのかもしれません。私はマッチングアプリをよく利用していたのですが、それはそこで出会った「知人」との他愛もないおしゃべりが楽しかったからなんです。ある人がチーズケーキをつくった写真を見せてくれたので、私も長谷川あかりさんのレモンとセロリの水餃子をつくって写真を送ってそれだけで終わる、とか。そういうなんてことのないやり取りが心地よくありました。
それは、私が最も影響を受けたTwitter(現・X)が、自分にとってはアドレナリンの分泌過多のような状態になってしまったこともあります。自分が一定の知名度を得たのもあるし、アルゴリズムの問題もあるし。影響を与えようと思ってつぶやいてしまうこともあるし、誰かの発言を大げさに受け取ってしまうこともある。Xの過剰さから離れたくて、Xをデトックスしてマッチングアプリを始めたりしていました。友だちからは、その使い方はおかしいと恐れられましたが(笑)。Xをやっているよりは落ち着くんですよね、匿名なので無害なおしゃべりができるんだと思います。
匿名性が高いと、注目を集める必要もないので、影響を与えようと過度に演じることがなさそうですね。
今のSNSは影響力が大きいので、この場にいる人全員にいいものを贈り渡して、自分自身も有益な情報を受け取ろうとしてしまう気がします。そうすると求められていることに意識が向くので、自分自身を保てないんですよね。

ランダム性に身を委ねて会話そのものを楽しむ。“会話過激派”というスタンス
本という媒体で贈り届けることの意味はどのように捉えていますか?『まだまだ大人になれません』を拝読して、ご自身を過度に演出することなく、思いっきりさらけ出しているように感じました。
いつも「この本が最後になるかもしれない」という気持ちで書いているので、書ききった感じが出るのかもしれません。かれこれ5年近く時間をかけて書いたのですが、本は書く人も読む人も時間がかかります。今この瞬間に受け取ったものを渡して、また受け取る、その速度が速いとドッジボールみたいな“過剰さ”につながるのかもしれませんが、本は“塊”としては大きいけれど時間感覚がゆっくりしているので、読者も時間をかけて取捨選択ができるように思います。

たしかに、本は自分で咀嚼する時間が作れるので、SNSとは別軸で受け取れるのかもしれません。
以前はSNSを日記代わりにしていたのですが、今はネットにすぐ出さず、同人誌として日記を刊行しています。Googleドキュメントで日記を書いて、半年に一度まとめて文学フリマに出しているのですが、その時間差が自分にとって心地いいです。日記は、誰かに何かを伝えようと書くのではなく、あくまでも起きたことをベースに書くので、半年後に読み返すと意外な発見があります。書き手にもコントロールできない、不思議な読み物だなと思います。
私も含めて、今は自分が欲しいものを確実に受け取ろうとする風潮が強いですよね。アルゴリズムによって情報が整理されて、なんでもコントロール下にあるような気持ちになってしまう。絶対おもしろいから観に行くし、絶対に効果があるから買いたい、という出会い方になります。下調べしてしまっているから、どれくらい心揺さぶられるかも予測できている。この、自分が想定している上限と下限の間で、情緒がおさまるようにコンテンツを消費しているのはどうなんだろう……と最近考えています。
想定外の出会いというのは、ここ最近ありましたか?
映画が好きなので、あまり下調べせずに好きな監督や雰囲気で観に行きます。レスリー・チャンが主演した『さらば、わが愛/覇王別姫』は衝撃すぎて傷を負ったんですけど、そういう予想を越えるものを受け取れるコンテンツには惹かれます。
あと、最近は会話についてよく考えています。マッチングアプリは、基本的に結婚や交際を前提としているので、そこで行われる会話は自分が条件以上の人間であることを伝える、つまり会話とはプレゼンである、という風潮があります。でも、知らない人と距離が近くなるときって、そんな機械的なものではない。私は会話そのものを楽しみたいですし、仲良くなろうとするための会話はもはや会話ではない、という“会話過激派”のスタンスなので、本当はマッチングアプリは向いてないです(笑)。
朝井リョウさんが、男性は会話が苦手な人が多いと仰っていましたが、いかが思われますか?
そうかもしれないですね。会話は議論ではなく雑談。向かう方向がわからないときに、自分が思いもしなかったことを言われて気分を害する人もいる気がします。私は、自分では思いもしない小さな気づきを積み重ねたくて会話をしているところがあります。が、それはそれで、同じ話題に興味を持っている、同質性の高い友達ばかりを好んでしまうという悩みがあります。他者性が高い相手と自分の思う「会話」をしたいという、難易度の高い願望があります。
自分の思う会話ができる相手とは?
最近の発見としては、趣味が一緒だから会話が合うわけではないと気づきました。同じく、映画を趣味タグに入れている人と喋るようにしていたんですが、だからといってバイブスが合うわけではない。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を一緒に観に行ってから、「今日って、映画が面白かっただけで、別に私たちの会話が盛り上がったわけではないな……」と後から愕然としたり(笑)。
知らない人と会う、という未知なる体験を最大化するために絶対おもしろい予定を提案してしまうのも、ランダム性に身を委ねられていなかったと反省しました。なので、相手が選ぶお店に行くように挑戦したことも。それもまた、相手からのプレゼンをジャッジする立場のようになり……最近、会話できる相手を見つけるうえで、「散歩」がかなりいいのではないかと発見しました。目的に沿って生きてきてしまった人ほど、散歩はすごくいい。会話も散歩的になるので、より雑談味が増してちょうどいいんです。
贈り物の逆で、意識的に手放しているものはありますか?
人の影響を受けやすいので、みんなと一緒がいい、みたいな考えは手放すようにしています。たとえば『国宝』は観ていない。みんなが感想を言っているものに乗っかると、注目してもらいたい欲が膨らみすぎます。あとは、人と感想を共有することが前提だと、自分とコンテンツの関係が薄まる気がするので感想は自分の中で育てること。もしかすると、贈与し合わない時間も大事なのかもしれません。立場的にも、関心を得ようとする発言をしてしまうので、自戒を込めて。過度に期待すると視野が狭くなってしまうので、ちゃんと立ち止まって自分の中で気持ちを育てたいです。

ひらりさ
平成元年、東京生まれの兼業文筆家。オタク女子ユニット「劇団雌猫」メンバーとして、『浪費図鑑―悪友たちのないしょ話―』(小学館)でデビュー。 女オタク文化からフェミニズムまで、女性と現代社会にまつわる文章を執筆する。単著に、『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)、上坂あゆ美氏との共著に『友達じゃないかもしれない』(中央公論新社)。2026年7月、『いつか終わる恋愛の、人生への影響について』刊行予定。