市井の“小さな声”の居場所をつくる。Takram 渡邉康太郎が本屋『とつとつと』に込めた思い

取材・執筆:原田優輝
撮影:大森めぐみ
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

明瞭で雄弁な“大きな声”が力を持ちやすい現代社会の中で、個々人が抱えるまとまりきらない思いや、社会が規定するカテゴリでは分類しにくい“小さな声”は見過ごされやすくなっています。旧池尻中学校を活用してつくられた、東京・世田谷の複合施設『HOME/WORK VILLAGE』の1階にある『とつとつと 小さな声とあわいの本』は、そんな市井の声に光を当てる本屋です。

毎月ひとつの問いを掲げた文章を「発句(ほっく)」として店内に置き、それに呼応するように来店者の手書きの言葉が集まり、選書も変化していきます。このユニークな場を運営する「図書委員」の一人、Takram コンテクストデザイナーの渡邉康太郎さんに、市井の小さな声を分かち合える場を社会にひらく実践について伺いました。

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ひとつの問いと、多くの応答が並ぶ本棚 

まずは、『とつとつと 小さな声とあわいの本』(以下、とつとつと)という本屋が生まれた経緯から教えてください。

3年ほど前に、この『HOME/WORK VILLAGE』という場の運営を担うことになる株式会社方方の小野裕之さんから、施設の入り口に本屋をつくりたいので一緒に考えてほしいと声をかけてもらったのがきっかけです。ただ、僕一人でやるよりも仲間と取り組んだ方がいいと思い、Takramのメンバーにも声をかけました。方方の内沼晋太郎さん、そしてバリューブックスの方々と一緒にプロジェクトを進め、店名もみんなで考えました。

そこで大切にしたのが、「小さな声」を象徴する名前にすることでした。ここでいう小さな声には、来店者の手書きの文字や、店内やコーヒースリーブなどに記された市井の人の言葉、また自分たちが運営するポッドキャストやイベントで語られることなど、さまざまなものが含まれます。

いまの社会では、明瞭で雄弁な、いわば「バズる」言葉の方が目立ちますが、まだまとまっていない曖昧な言葉にもなにかの価値があるはずです。言葉にしたら失敗しそうだからと黙っておくのではなく、「とつとつと」でも語り始める。そんなイメージをこの名前に込めました。

毎月変わる「発句」に対する一人ひとりの応えを読むと、それぞれが自分なりの仕方で呼応していることがわかり、小さな声を分かち合うことの豊かさを感じました。

僕は、市井の人の言葉を「弱い文脈」と呼ぶことがあります。それは社会の中ですぐに影響力をもたない、注目されづらいものだからです。でも、「強い文脈」と「弱い文脈」の両方に触れられる方が、人ひとりの人生も、世界もともに豊かになるはずと思っています。大きなメディアに載るような声は放っておいても多くの人に届き、小さな声は届きづらい。でも、小さな声に決して価値がないわけではない。

自分にしか聞こえない声、拾えない声があって、自分だけがその「記憶の器」になれることもある。小さなものが小さなまま、弱いものが弱いまま存在できる。そのバリエーションを感じられる社会の方が、きっといい。そういう信念のようなものがあります。

本は通常、著者がいて出版社から出されるもので、どうしても情報発信のピラミッドの上の方にいる、一部の人の言葉を浴びるという構造になります。本屋はこのように強い文脈に触れる場になりがちですが、そうではない弱い文脈、市井の人の言葉も、同じように文字として読めた方が面白いと思うんです。ひとつの問いに対して、たくさんの応えが並ぶこのお店の本棚も、そうした関心から生まれました。

小さな声に耳を澄ますという渡邉さんの姿勢は、どのように育っていったのでしょうか?

デザイナーとしての僕のスタイルに関係しているかもしれません。僕は、自分一人のひらめきで誰も見たことのないものをつくるような“マエストロ”タイプのデザイナーではありません。だからこそ、色々な人に話を聞くんです。例えば大きな組織のロゴやミッションをつくる時も、経営者から新入社員、工場など現場で働く方までさまざまな立場の人にインタビューをします。そうした一人ひとりのリアリティによって組織が形づくられているのだとしたら、外から来たデザイナーが果たすべき大切な役割は、自分の個性を発揮して何かをつくることよりも、その人たちの中にあるクリエイティビティを引き出すことだと思っています。

懇親会で偶然隣になった人と話が弾まない時、相手がつまらないと決めつけるのは簡単です。でも、どんな人の中にも面白さはあって、それを上手く引き出せないなら、おそらく問いかける側、つまり自分自身の問題と捉えたほうがいい。都築響一さんの『Neverland Diner 二度と行けないあの店で』(ケンエレブックス)という本がありますが、「何かしらの理由でもう行けなくなってしまった店の話をしてください」という問いかけがあるだけで、誰もが語り部になり得るんです。すでに閉店してしまったお店、粗相をして気まずくて再訪できないお店、海外旅行中に見つけた場所も覚えていないお店……。一人ひとりの語りからは、会社名や勤続年数といった属性でだけでは見えてこない、「その人らしさ」が立ち上がってくる。そういう声を探しに行きたいんです。

一人ひとりの声を手書きの文字で残す 

現代の社会には、そうした一人ひとりの小さな声と出会える場所や、それを記録する媒体が少ないのかもしれません。

生活者のちょっとした言葉というのは、なかなか記録されず、活字にもならないから、歴史に残らない。でも、本来は世の中の大半を構成している言葉のはずです。為政者など声の大きな側の言葉、いわば強い文脈を持つ一部の言葉「だけ」が文字になって残っていくのは、すごくバランスが悪い。だからこそ、世の中の大半を形づくっている弱い方の言葉が、きちんと文字になる場をつくりたいという思いがあります。

もちろん、そうした言葉はすでにSNSにあるという見方もあります。実際、SNSの黎明期には、普通の生活者の普通の言葉に触れられる場としての期待があった。でもいまは、どちらかというと「いいね」や「リポスト」数のような外部化された評価が前面に出てきたり、ビジネスや思考の誘導のために使われたり、思考の分断を加速させたりもしている。

文化庁の調査(令和6年度 - 国語に関する世論調査)でも、16歳から19歳の7割以上がソーシャルメディア疲れを感じているのか、「相手の感情がわかりにくい」と答えています。当初SNSに期待されていたものが機能不全を起こしているいま、デジタルによらない等身大の手書きの行為や、リアルに足を運べる書店を通して、感情の伝わる言葉に触れられる場をつくりたいと思っています。

映像や音声といった多様なメディアがある中で、文字として残すことにはどのような意味があると考えていますか?

本に書かれた言葉と市井の人の声が等しく並ぶ場にしたかったということがまずあります。この本屋のレジで買えるコーヒーのスリーブには、必ず誰かの言葉が印字されています。それは九鬼周造の著作から引用されたものかもしれないし、来訪してくれた20代の誰かの言葉かもしれない。そのフラットさを大事にしたかったんです。

それに、文字にはその人の「人となり」が現れます。幼稚園生のお絵描きの筆致が見えたり、密度感のある長文があったり、字の佇まいからもそれぞれの個性が見えてくる。それを一覧できるのは、紙や文字の良さかもしれないですね。

デジタルデバイスで文字を入力することが多い昨今、文字を物理的に書く機会自体が減っています。そんな中、ここはゆっくり思考し、自らの手で書くという貴重な体験ができる場にもなっているように感じます。

そうですよね。東京大学の酒井邦嘉教授(脳生理学者)の研究では、手書きの方がデジタル入力よりも記憶の定着が良いという結果が出ています。僕は、手書きの「効率の悪さ」にこそ価値があると思っています。時間をかけ、遠回りをする中で、次々に思考のバブルが湧いては弾けるようなプロセスがあると思うんですね。

それは手紙などにも少し似ている。例えばLINEはインスタントな返事が求められがちで、やや切迫感のあるコミュニケーション形態です。手紙はそれとは違って、日々の生活の片隅で、どんな返事を書こうかとじっくり考える。その遅さや余白が、クリエイティビティの苗床になると思うんです。ここで懐かしい学校の学習机に座って、鉛筆を握りながら考える時間自体が、日常の中にある茶室のような場になったら面白いなと思っています。

バズらない語りが共有のトリガーになる 

店内の「発句」は、自分の中にモヤモヤと内在しているものを、勇気を出して言葉にするトリガーになっているように感じます。これらの発句は、どのように決めているのですか?

ゆくゆくは本の著者や近所の中学生に発句を担当してもらうなど、バリエーションを広げたいのですが、まだ離陸期なので図書委員と呼ばれる内部のメンバーで回しています。例えば、「『わからないこと』と生きるための想像力」という発句はTakramの菅野恵美さんによるものですが、意見交換しながらバージョン7くらいまで練り上げました。初期案はもっと抽象度・難易度が高いものでした。毎週のように意見交換をしながら、菅野さんが推敲を重ねていったんです。その中で一人ひとりも自分ならではの解釈や連想を育んでいく。個人のもやっとした気持ちを、他者のインスピレーションになるレベルまで磨いていくプロセス自体が、メンバー全員にとって大事な発酵時間になっているんですね。

これに限らず、僕が書いたものも含めて、発句は長文になることが多くて一見わかりにくいし、おそらくバズるような内容でもない。わかりやすくて激しい感情が込められているわけでもありません。でも、丁寧に読めば深くつながることができるかもしれない。実際に、この発句に触発されてイベントに足を運んでくれた方も複数いて、当日の場にはとてもよい空気が生まれました。そういう人は社会全体では少数派かもしれません。でも、数の論理に支配され、SNSでもアルゴリズムによって掬い上げられる言葉が決まってしまう社会の中で、簡単にハッシュタグをつけられず、カテゴリにも収まらず、拡散もされないけれど、それでも当事者にとっては切実な言葉の居場所は、絶対に必要だと思っています。

そうした小さな声、市井の声が共有されることへの欲求が、社会の中で高まってきているようにも感じます。

誰もが社会に出て働く中で、歯車の一部になり、交換可能な存在になってしまう危機をどこかで感じていると思うんです。だからこそ、そうではない部分をみんな持っていたいんじゃないかと想像します。

それは、あらゆることについて鋭く尖って反社会的に生きるということではなく、社会の価値観とフィットする部分を7〜8割くらい持ちながら、2〜3割は譲れない自分らしさを抱えているくらいのバランスかもしれません。僕自身もそういう部分を大事にしたいし、他の人の2〜3割のこだわりや偏愛をもっと見たいし、語ってほしい。その思いから書いたのが『生きるための表現手引き』(NewsPicksパブリッシング)という本です。『とつとつと』という本屋も、同じような思いに根ざしています。

社会に目を向けると、2014年からの10年で書店全体の3割ほどが閉店した一方、近年は年100件ペースで独立系書店ができているという現象も見られます。貸本棚のような仕組みを持つ書店も多く、選書家や市井の人が選んだ本に触れられる場も増えている。そこには、多様な視点に触れたいという欲求があるんじゃないかと思うんですよね。

昨今の日記ブームもそうした背景と関係しているのかもしれませんね。

本当にそうですよね。少し壮大な話になりますが、人類が文字で記録してきた歴史をたどると、『ギルガメシュ叙事詩』のような大きな物語に行き着きます。文字はもともと、国家や政治、為政者の公式な記録を、時に誇張しながら残すために使われてきました。

他方で、普通の人の普通の言葉や、日常の感情の機微が描かれるようになったのは、16世紀頃の小説の誕生以降だと言われています。そして、SNSによってその民主化がさらに進むかと思いきや、結果的に別の数の論理によるヒエラルキーが生まれてしまったのが現代なのかもしれません。

前衛美術家の赤瀬川原平は、生活から生まれた表現が崇高なものとして持ち上げられ「芸術」となった後、それをもう一度生活の手元に引き戻そうとする行為が「前衛」だと語っています。文字による表現も相似形かもしれません。SNSが新しいヒエラルキーを生んでしまう時代に、一人ひとりの言葉を再びそれぞれの手に取り戻したい。強い声も弱い声も、どちらもあっていいと思いますし、違う選択肢がある、違う極がある社会というのを楽しんでいけたらいいですよね。

分かち合う機会は、自分からつくる  

渡邉さんのポッドキャストや著作に触れていると、さまざまな先人たちの言葉を自在に引用する力に驚かされます。そうした言葉や声を自分の中に蓄積し、血肉にしていくために意識されていることがあれば教えてください。

本を読む時に一番大事なのは、読みながら面白がることだと思っています。自分が凄いと思ったものしか印象に残らないので。凄いと思いながらたくさん線を引いたり、付箋を貼ったりするのが第一段階です。

次に来るのは、その興奮を誰かと分かち合いたいという欲求です。でも、SNSだと「いいね」のような反応を気にしてしまって書けなくなるかもしれない。だから一緒にご飯を食べている人やミーティングの相手に話します。でも、大体うまくいかない(笑)。自分はこんなに面白いと思っているのに、相手には伝わらない。その悔しさがあるから、また原典に戻って読み返し、どう言えば伝わるのかを行き来する中で、言葉が磨かれていくんです。

本や言葉のメモも取りますが、一冊の本の内容を要約するというより、例えば「無駄の礼賛」といったテーマごとにノートをつくるんです。そこには、先ほど話した東大の酒井教授の研究を、「遅いことにこそ価値がある」という独自の意味づけを加えてメモもすれば、無駄を楽しんでいるように思える小説やエッセイの一節も追記する。すると、それに関連したテーマで文章を書く時や人前で話す時にも、ひとつのノートから色々な方向に思考を拡げることができるんですよね。

自分が感じたこと、学んだことをアウトプットする場があることが重要なのかもしれないですね。

そうですね。人と話す時に思考が進むところがあると思います。自分にとっては、本を読んで面白いと思うことと、それを誰かと分かち合うことはセットなんです。自分はこういう風に本を、世界を面白がっているけれど、同じように面白がってくれる人もいるはずだとノックしているような感じですね。

語る場、分かち合う場があることで、深く考えたり、声を発する機会が生まれる。それ自体は大切なことである一方、誰かと何かを分かち合う機会は歳を重ねるごとに減ったり、限定的になってしまう気もします。

たしかにそうかもしれません。だからこそ、自分から動くことが大事だと思います。例えばいま、多和田葉子さんの小説を読んでいるのですが、知人に勧めたら「読んでみようかな」と言ってもらったので、「じゃあ一緒に読もうか」と。ここ数年は、1対1から10人くらいまで、色々な規模で読書会をすることにハマっています。張り合いを持って読めますよ。

人に会うことについて言えば、よくわからない誘いに乗るのも大事だと思っています。誰しも出不精なところはあるけれど、面倒くさいと思いながら行ってみると、大体は楽しいですよね。遠くに出かけて見る景色や、身体や心に残る交換不可能な体験が蓄積された方が楽しいから、誘いにはどんどん乗ります(笑)。

仕事でもプライベートでも、自分の価値観を揺らしてくれる人や異論を投げかけてくれる人がいた方が絶対に面白いし、視野が広がる。そういう出会いは、やっぱり重い腰を上げた時に初めて訪れるものなんだと思います。

そんな渡邉さんは、この書店の名前にも掲げられている“あわい”に常に立っている人であり、その豊かさを伝えてくれる存在だと感じます。

この本屋では、ひとつのテーマのもとに柳田國男から量子論の本までが同じ本棚に並んでいます。そうした分類不能な状態こそが楽しいし、好きなんです。物理学と文学を横断した寺田寅彦のように、深掘りすればするほど他のジャンルへジャンプして、言葉が通じ始めることがある。例えば、分子生物学者の福岡伸一さんがフェルメールについて本を書いているのも、アートと科学の鉱脈が地下でつながっているからだと思います。

いま世の中であたりまえのように扱われている「分類」の作法は、政治や学問の系譜などに由来した、かなり恣意的なものだと思うんですね。それをもとに、例えば本の「十進分類法」ができている。でも、ある一冊をどの本棚に分類するかは、人や場合によって変わってくるはずですよね。そもそも分類したくないかもしれない。そんなふうに、分類しきれないものを誰しも抱えているはずで、それをそのまま受け止めるには時間がかかるし、面倒くさいけど、それに付き合うことからしか生まれないものもある気がしています。

ただ、それは自分にとっては同時に不安の源でもあります。よくTakramについて「人工衛星から和菓子まで」と紹介するように、僕自身もかなり分類不能な仕事をしている自覚があるので、デザイナーを名乗りながら「本当に自分はデザイナーと名乗っていいのか…?」という不安や自己批判を常に抱えています。「あわいだから面白い」と他人については言えるのに、自分の話になった途端に足場が揺らぐ(笑)。それでも、その不安から抜け出せないまま歩いていくしかないのかなと思っています。

渡邉康太郎(わたなべ・こうたろう)

Takram コンテクストデザイナー

組織のミッション・ビジョン策定からアートプロジェクトまで幅広く牽引。主な仕事にイッセイ ミヤケとの「FLORIOGRAPHY」、北里研究所や日本経済新聞社、FM局J-WAVEのブランディング・ロゴデザインなど。著作『コンテクストデザイン』(Takram、2019 年)は青山ブックセンター2022年総合ランキング1位を記録。趣味は茶道、茶名は仙康宗達。慶應義塾大学SFC 特別招聘教授や東北芸術工科大学 客員教授を歴任。

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