親の愛はときに毒になるから。教育者・鳥羽和久が「ノイズ」として親子に関わり続ける理由

取材・執筆:村上広大
撮影:坂口愛弥
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

昨今は、子どもを一人の対等な存在として尊重し、丁寧に対話を重ねようとする親が増えているそうです。頭ごなしに否定せず、気持ちを受け止め、理由を言葉にして伝える。そうした関わり方は、かつてよりも成熟した子育ての姿として世間一般では評価されています。

しかし一方で、その「正しく、やさしい関わり」が、思わぬかたちで子どもの選択や思考の幅を制限しているとしたら。親の言葉を深く内面化しすぎた子どもたちが、自分自身の言葉を失い、自立への防衛反応である反発する力さえ弱めているとしたら。私たちはそのやさしさをどう捉え直すべきなのでしょうか。

親・子・教育者という三者の視点から「与えること」と「手放すこと」について、教育者の鳥羽和久さんと考えます。

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なぜ子どもを所有するような感覚が親に生まれるのか

今日は「贈与」をテーマに話をお伺いできればと考えています。鳥羽さん自身の経験でも、教育者としての立場でも構いませんので、ざっくばらんにお聞かせいただければ。

どれくらいテーマに合うかわかりませんが、私は子供とかかわる仕事をしていることもあり、親子間で与え合っているものが気になります。

たとえば、小学生や中学生と接していると、驚くほど親から与えられた言語でしか喋っていないことが多いんですね。判断の仕方や言葉のトーンまで、親とそっくり重なる子もいます。

それは親の言葉の影響力が以前より強くなっているということでしょうか。

影響力は、昔とそれほど変わっていないと思います。ただ、子どもが真に受ける度合いが大きくなっている印象がありますね。

いまの親は、子どもの欲求を頭ごなしに抑えつけたりしません。「あなたはそう思うんだね。でも、私はこう思うよ」と理由を尽くして説明しようとする。そうすると、子どもにとって親は「自分のことを第一に考えてくれる存在」になります。だから、親子関係は良好な場合が多い。

ただ、それはそれで親に反発する余地が生まれにくくなります。子どもは親の言葉をそのまま受け取り、期待に応えようとする。そのような状態は自発性が高まっているようにも見えますが、実際には自分自身の言葉を獲得するのが難しくなっているんです。

しかも、親自身が昔のように「これが私の価値観だ」と強く打ち出さない。すると、子どもは価値観が曖昧なまま育ち、いつまでも親に依存してしまう。それはある種の「毒」でもあると思っていて。

毒、ですか。

はい。子どもは、「宝」と「毒」を同時に受け取っていると言えます。そして、親もまた、それを反射的に受け取っている。だから、子どもの世界にものすごく干渉してしまう。もちろん、親は良かれと思ってやっているわけです。

ただ、親の干渉が深い傷になることもあります。子どもは、自分の行動に対する罪悪感もあるし、恥ずかしさもある。その繊細な感情を守りたいわけです。ところが親は、子どもの羞恥心に対して驚くほど無頓着で、平気で聖域に踏み込んでしまう。それはおそらく、心のどこかで子どもを所有物のように捉えているからなんでしょうね。

子どもを所有するような感覚がなぜ生まれるのか。あらためて考えると不思議ですよね。

ある意味、仕方がない部分もあると思います。生まれてから10歳くらいまでは、親が守らないと生きられませんから。だからこそ、その関係は恐ろしいほど強固になるわけです。子どもが寝ているときに、きちんと呼吸しているかどうかが心配になるのも理解できます。

ただ、子どもは10歳前後になると認知能力が大人に近づき、言語優位の思考へと移行します。物事を論理的に捉え、自分なりの世界を持ちはじめるんですね。そこからは、子どもの命を守る立場から、子どもの自由な生き方を守る立場へとシフトチェンジしなければいけません。それができないと「親が先回りして与えすぎる」というある種の依存になります。そこからいかに脱却するかが重要ですが、現実には決して容易なことではありません。

その切り替えが難しいのは、子どもに与えている状況そのものに、ある種の心地よさがあるからなのでしょうか。

まさに、そこがケア論の盲点です。親が気づかなければならないのは、子どもを慈しむ気持ちの中に、自分自身の不安を解消したいという欲求が混じっていないか、という点です。それができていない状態だと、結果として自分の不安を子どもに押し付け続ける親になってしまいます。

自分の不安は自分で引き受け、落とし前をつける。そのためには「親として」だけではなく、「私として」生き直すプロセスが必要です。

子どもと向き合うというより、自分と向き合うことになるんですね。

その通りです。そうして少しずつ子どもを手放していくことで、はじめて与えられるものもある。

私自身の話で言えば、いまでも親に感謝しているのは「子どもの秘密を守る」ことを大切にしてくれた点です。それは親から受け取った、もっとも大きなギフトだったと言えます。私が明らかに嘘をついているときでも、親は積極的に追及しようとはしてこなかった。

嘘のように聞こえるかもしれませんが、学生の頃、私は1ヶ月で3回も交通事故に遭ったことがあります。そのうちの1回は軽トラックに撥ねられ、体が宙を舞うのがスローモーションで見えるほどでした。それでも私は大ごとにしたくなくて、「ちょっと転んだだけ」と嘘をついた。

すると、親からはいくつか最低限の確認をされただけで、それ以上は何も聞かれなかった。その「問わない」という静かな態度に、私はどれほど救われたか。沈黙によって守られたその時間は、自分なりに考え、生き方を見つけていくうえで欠かすことのできない経験でした。

「褒めて伸ばす」の裏側に潜むコントロールの欲求

親が子どもを上手に手放していくためには、どのようなことが必要なのでしょうか。

ひとつは、学び続けることだと思います。といっても、リスキリングのようなスキル獲得のかたちというよりは、自分自身を更新し続けるための学びです。そうすれば、子どもへの執着を手放し、「いまはこう関わったほうがいい」という自律的な判断も、少しずつできるようになります。

ただ、学びは誰にでも必要だという考え方には、必ずしも賛成していません。私は農村地域の出身ですが、同級生で大学に進んだのは私を含めて数人でした。多くの人は地元で農業をしたり、工場で働いたりして生活しています。彼らの暮らし方を見ていると、「変に学ばなくていい」という感覚もよくわかるんです。

学ぶことは自己を揺さぶり、自らを不安定にする行為でもあります。だから、学ばないことで安定する人生を、私は否定したくない。不安定になることを引き受けてでも自分を更新したい物好きが、学べばいいと思うんですよ。

それは子育てに関しても、ある種の「オレ流」でやる親がいてもいい、ということでしょうか。

そうですね。最近の中受の親向けの必勝本の類には「両親のメッセージを必ず一致させてください」と書いてあったりしますが、正直、怖いなと感じます。規範的な部分で親が完全に一致してしまうと、子どもには逃げ場がありません。むしろ、片方が厳しいことを言い、もう片方がそれをさらっと折る。そのくらいのバランスのほうが、子どもにとっての逃げ道になり、選択する余地が生まれます。

それに親の意見が一致していなくても、勉強したい子は勝手にしますし、意外と自分から規範的な方に寄っていく子も多い。無理に一致させる必要はないんです。

子どもは子どもなりに、自分で判断して選択できるということですね。

ええ。結局、子どもは「自分の欲望が叶うのはどちらか」を自然と選んでいくものです。親が「こうする」からそうなるのではなく、子どもは勝手に「そうなってしまう」もの。コントロールしようとしてもし得ない部分が残る。それが人としての尊さです。だから、そうなっていく結果を見極め、その過程をただ見届けられる場所に立っていられるか。そこに尽きるのだと思います。

教育熱心な親御さんから「どう声をかけたらいいですか」「やればできるのにゲームばかりしている」「反抗的で困っている」といった相談を受けることも多いと思うのですが、それに対してはどのように返されているんですか?

それらの問いの前提にあるのは、やはり「子どもをどうコントロールするか」なんですよね。最近よく言われている「褒めて伸ばす」という発想も、褒めることで子どもを操作しようという考えに基づいています。そうした下心は、子どもに伝わりますし、反発の引き金にもなる。でも、子どもが反発するのは、ごく自然なことなんです。親のコントロールに抗うことは、子どもにとって自分の内面の自由を守るための切実な防衛反応ですから。

だから、テクニックとしての声かけや対応を考える以前に、親は自分の感情に正直にならなければなりません。目の前で子どもが何かをして、心からすごいと思えば驚いたり褒めたりすればいいし、腹が立ったら「それは嫌だ」「やめてくれ」と素直に言えばいい。コントロールしようという作為を捨て、一人の人間として正直に反応を見せてコミュニケーションを取る。それが一番だと思っています。

正しさを揺らす「ノイズ」としての教育者

少し視点を変えて伺いたいのですが、親子の二者関係とは別に、鳥羽さんのような教育者が介在することで生まれる関係もありますよね。教育者・親・子という三者関係の中で、鳥羽さん自身が担っている役割をどう捉えていますか。

ひと言で言うなら、「ノイズ」としての役割だと思っています。たとえば『ちびまる子ちゃん』で、お母さんがガミガミ怒っているときに、おじいちゃんの友蔵がふらっと現れて「まあ、そんなに言わんでも大丈夫じゃよ」と、文脈を無視したことを言い出したりしますよね。ああいうノイズがとても重要なんです。

親の言葉を唯一絶対の正解にさせない。それは親だけでなく、学校や社会の規範についても同じで、少し斜めから見て鼻で笑うような存在が常にどこかに必要だと思っています。私はこれを、社会学者の宮台真司さんに倣って「ウンコのおじさん」というメタファーで呼んでいます。

ウンコのおじさん、ですか?

はい。親が本気で子どもを叱り飛ばしているとき、視界の端で意味不明にウンコをつついているおじさんがいる。すると、怒っている側の集中力がふっと切れて、「え、何あれ?」となる。その瞬間、怒りは絶対的な原理ではなくなります。そうやって逃げ道をつくるノイズは、第三者が担うべき役割だと思っています。

たとえば三者面談。「どこの学校に行きたいの?」「将来の夢は?」というように、そもそも本人に「意志」があることを前提した場になってしまうことに問題を感じるので、私はそれを絶対にやらないようにしています。

そこで応用しているのが、哲学者の國分功一郎さんが提唱する「欲望形成支援」や、精神医療の「リフレクティング(他者の会話を傍聴する)」という考え方です。あえて子どもを視界から外し、目線を向けないまま、親と二人だけでその子の話をはじめるんです。

「この子、これが好きだよね」「ここは得意だよね」「だったらこの学校、雰囲気が合うかも」「でも英語は苦手だから、ここはきついかな」といった具合に、本人の前であえて好き勝手におしゃべりをする。そのとき、絶対に子どものほうを見ない。自分が試されている、評価されていると感じさせないためです。

そうやって10分、15分と話していると、あるタイミングで子どもの表情がふっと緩んで「じゃあ、あの学校に行ってみようかな」と自ら口にすることがあります。「どこに行きたいの?」と正面から問われている間は沈黙していた欲望が、第三者同士の会話を横で聞くプロセスの中ではじめて芽生えるわけです。家庭内でこれをやるのは限界があるかもしれませんが、教育の現場では一つの有効な手法として意識的に実践しています

外部からの刺激を受けることで、隠れていた本人の欲望が浮き彫りになっていくのですね。

そもそも、私は「内発的」という言葉をあまり信用していないんです。教育や学びの文脈でよく美徳として語られますが、「そんなものが本当に存在するのか」とさえ思っています。

人は関係性や環境の中で外部からの刺激を受け、それが自身の欲望と結びつくことで、はじめて何かが立ち上がります。自分という内部だけで完結する学びや欲求など、基本的にはあり得ない。それは「贈与」も同じだと思うんです。内発的に贈与する人など存在せず、すべては環境との呼応の中で自然とそうなってしまうものではないでしょうか。

関係が途切れるからこそ感じられる「いま」という貴重な時間

「内発的な動機」というものをあまり信用していない、というお話がありましたが、だとすると鳥羽さんご自身の原動力はどこにあるのか気になります。教育という仕事を天職だと感じる瞬間はありますか?

天職と言うのはまだおこがましいですが、自分の特性を活かせている自覚はあります。たまに同業者から「合わない生徒とはどう向き合うんですか」と聞かれることがあるのですが、合わないと感じる生徒はほとんどいないんですよ。この20数年で1,000人ほどの子どもたちと関わってきましたが、少し大変だったなと思い出す子が数人いるくらい。そういう意味ではこの仕事に向いているのだと思います。

「合わない子がいない」というのは驚きです。鳥羽さんの目には、子どもたちの姿が一体どのように映っていますか?

理屈抜きに面白いんですよ。たとえば、私が営んでいる単位制高校では、修学旅行の行き先を生徒自身で決めるようにしているんですね。世界中どこでもいいというルールで、今年の生徒たちはバルト三国を選びました。

その中心メンバーに、すごく繊細で、環境が変わると縮こまってしまうタイプの子がいたんです。彼がバルト三国を選んだこと自体も興味深いのですが、現地に着いて森の中を歩きはじめた途端、彼は「情報が多すぎる」とパンクしてしまった。

そこで彼がどうしたかというと、イヤホンをつけて、霜降り明星の漫才を聴きはじめたんです。小川のせせらぎが聞こえるバルト三国の深い森を歩きながら、耳元ではずっと漫才が流れている。それは彼にとって、安らげる場所を身にまとっている状態なんですね。そうやって刺激を半ば遮断したまま、バルト三国の自然の中を歩いている。その光景が、私はもう面白くて仕方がなかった。

ある方との対談でこの話をしたら、「せっかくの自然環境なのに、なぜ五感を遮るのか」「教育者として自然を楽しませようと思わないのか」と言われました。でも、私はまったくそう思わないんですね。なぜなら、その方法が彼にとって最大限の世界の楽しみ方なのですから。

そういった「独特の世界の味わい方」のようなものを垣間見れることが、この仕事の醍醐味だと思っています。

環境の変化にさらされたときの「独特の世界の味わい方」に、その人の輪郭のようなものが現れるのかも知れませんね。最後になりますが、数多くの親子と向き合ってきた中で、鳥羽さん自身が受け取ってきたものは何だと思いますか?

たくさんありすぎて、「私の人生そのものが受け取ったものです」と言いたくなるくらいですが……。

学習塾の講師という仕事は、学校の先生以上に、卒業してしまえば関係が途切れるものだと考えています。私は、その「途切れる」という前提をむしろ大切にしたい。いずれ別れが来ることを予感しながら向き合う中で、人とのつながりとは「いま」という一瞬を積み重ねるしかないのだと、深く実感してきました。

卒業していけば、関係は途切れるかもしれません。でも、あの子たちと過ごした濃密な時間は、私の中に確かな手触りとして残っています。それは何にも代えがたい大きなギフトであり、「この感覚があるなら、これからも生きていける」と思わせてくれるものです。それほどまでに大切なものを、私は彼らから受け取ってきたんだと感じています。

鳥羽和久(とば・かずひさ)

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40人を集めて学習塾を開業。現在は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役として、学習塾「唐人町寺子屋」塾長、単位制高校「航空高校唐人町」校長、および「オルタナティブスクールTERA」代表を務め、小中高生150名余りの学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)、『「推し」の文化論――BTSから世界とつながる』(晶文社)、など。