ものを解釈せずにはいられない。向坂くじらと考える、贈りものの意味

取材・執筆:大矢幸世
撮影:木村文平
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

ものを贈るとき、本当に喜んでもらえるだろうか、その人のためになるだろうか……と考え込んでしまうことはありませんか。ものを贈る、ただそれだけのはずなのに、なかなか選べず、機を逸してしまうこともあるかもしれません。

「ものをいただいて、喜べないときのほうが多いんです」。

そんな気持ちを率直に共有してくれたのは、詩人の向坂くじらさん。贈りものに対して過剰に意味付けしてしまったり、考えすぎてしまったりすることが多く、苦手意識が拭えないのだといいます。一方、近しい相手とときと場を共有し、料理を振る舞うことには喜びがあると、その複雑な感情を明かします。

『国語教室 ことぱ舎』を主宰し、ポエトリーリーディング×エレキギターユニット『Anti-Trench』では朗読を担当。小説『いなくなくならなくならないで』は第173回芥川賞候補作に選出されるなど幅広く活躍される向坂さんと、ものを贈ることの意味と、人と人との心地良いあり方を考えていきます。

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贈りものをするときの「試される」感覚、意味付けの世界

向坂さんの印象に残る贈りものって、何かありますか?

私自身、プレゼントを選ぶのはあまり得意ではないんです。私の中で、プレゼントには概ねふたつの方向性があって、ひとつは相手に同調しようとするもの、もうひとつはまるっきり他人として目の前に現れるもの。

前者の意味で選ぼうとすると、自分自身の同調できなさを思い知らされるし、かといって後者であろうとすると、それはそれで悩ましく……。と言っても、あまり生活の役に立たないもの、自分ではあえて買わないようなもの、楽しみになるようなものをあげるとか、その程度のことなのですが。それでも、他人であることを意識するあまり、自分という存在から贈られるものが喜ばれるかどうかを試されるような感覚に陥って、それに怯えてしまうというか、考えすぎてしまうんです。

確かに贈りものを選ぶとき、相手のことを必然的に考えることになりますが、あまり相手のことをよく知らないな、と思いあたることもありますよね。何が好きなんだっけ、みたいな。

だから自然にさらりと贈りものができる方には、とても憧れがあります。こないだ個展を開催したときに、文筆家の大原扁理さんがいらっしゃって、サンドイッチを持ってきてくださったんです。台湾にあるお店がはじめて日本に出店されたとかで、普段は東京にいらっしゃらないから「せっかくだし食べてみたかったんですよ」と、その場にいた人におすそわけしたりして。

大原さんは自ら隠居生活を名乗って暮らしている不思議な方で、たくさん宝くじを買って、会う人に配っているんですって(笑)。でもそんな自然さが、自分にはないぶん、すごく憧れます。変に考えすぎて、ものをあげようとする自分の考えの浅はかさが気に掛かってしまったり、逆に過剰に意味合いを持たせたくなってしまったりすることが多いんです。

昔から、贈りものに苦手意識はあったのですか?

小さな頃はあまり意識していなかったかもしれません。私の実家は、わりとしっかりプレゼント文化のある家だったんですよ。毎年クリスマスには、ツリーの下にそれぞれが買ってきた家族全員分のプレゼントを置いて、みんなで開けるんです。他にもおもちゃで欲しいものをリクエストしたり、ランドセルとか本当に必要なものを買ってもらったり……楽しくやっていました。ただ、中学、高校、大学と成長するにつれ、友達からもらうときにあまりうまく喜びにつながらないことが増えてきて。

プレゼント交換するときって、リアクションも含めて期待されている感じがしますからね。

そう、何か強要されているような感じもして。自分にとってよほどの親密な関係性であれば、一回一回意味付けしなくてもよくなって、やっとあげたりもらったりしやすくなるのですが。

そんな向坂さんでも、もらって嬉しかったものはありますか?

半年ほど前にちょっと仕事を入れすぎてしまって、これはもうしんどいと思って「2週間休みます」と、みなさんに宣言して休んだんです。すると担当の編集者の方たちから、マッチのような形状のお香や、ハーブティーやなんかをいただいたんです。それはすごく嬉しくて、ちょくちょく使っていますね。

なんというか、いい香りのするその小さな物体を、他人にしてもらうことの一つの象徴として受け取ったんです。他人ですし、私がしんどい状態にあることに対してできることはないけれど、「心地良い時間を過ごせるといいですね」というメッセージがその物体に込められているような気がして。

そうやって、単なる物体にすぎないものを何かしらの関係性の中で意味付けてしまいたくなるからこそ、それを過剰に捉えすぎたとき、居心地が悪くなるのかもしれません。自分がものを贈る側として考えるときも、それを意識しすぎているんでしょうね。

けれど、ものを解釈することこそ、詩作の営みと言えるでしょうし、なかなか意識しないでいるのも難しいですよね。

なんというか、いつも重層的な……ピントが合わない世界を生きている感じがしています。

「約束ごと」を共有できる関係、できない関係

向坂さんには、大切なものはありますか?

正直なところ、多くの「物体」に対してはそれほど執着を持たないんです。私にとって、家に置いてあるものは代謝を続ける「流動体」に近いのですが、夫はそれを淡々と整理整頓しています。夫がいることでその流動体に加わる力が一つ増えることになりますが、私にはある一定の方向に留めようという気持ちがあまりないので、大して変わりはありません。

ものをなくすことも多くて、今日も携帯電話を忘れてきたんですよ。日々そのような不条理なことがたくさん起こるので、夫に片付けられることも自分がなくしたことも、頭の中では同様に「消滅した」と捉えられるんです。私は自然現象としてそれを受け止めているのですが、夫としてはときに不本意であるようです。やはり秩序の中に戻そうとしているので。

ただ、家のごくわずかな範囲に執着を覚える対象のものが留められていて、さすがにそれをなくしてしまうとショックを受けるでしょうね。

それはどういったものですか?

やはり、象徴的な意味を持つものが多いですね。結婚指輪とか。なくしてしまうのが恐ろしくて、日常的には着けていないんですけど。

お連れ合いからもらったものは大切に思えるんですね。

そうですね。恋愛はまさに象徴をやり取りする関係性と言えるので、問題は起こらないんですよね。なんというか……恋愛という、象徴の中で共有するものがあるじゃないですか。ものや言葉の意味あいを解釈する上での「約束ごと」がお互いに共有されていれば問題ないけど、相手と共有されていないある文脈を一方的に向けているとなったとたん、強い違和感を覚える。意味付けの「ズレ」を、ものを通じて私が勝手に受け取ってしまうんです。

「約束ごと」を共有できていると感じるのは、どんなときですか。

語彙に表れてきますよね。今この場では「私」と言っていますが、プライベートでは「俺」と言うようになりました。夫の一人称がうつったんです。逆に私の言葉遣いが夫にうつることもありますが、快感を覚えるというか、非常に嬉しく、サディスティックな気持ちになります。健全なことではない気がしますが。

以前、不登校の子ども支援や若者のメンタルヘルスに関わる仕事をしたことがあって、今も教育に携わっているからか、生身の、人格のある自分として他人と付き合いすぎない術を、どこかで学ぼうとしてきたところがあるんです。専門的な勉強をしたわけではありませんが、精神医療に関する書籍などを読んで、いかに相手と自分とを同一化しないか、あるいは同一化されようとすることをいかに拒むか、というのを、意識的に学んできたというつもりではあります。

そういう仕事上、自他の境界を常に意識せざるを得ない中で結婚したのは、私にとってはとても大きなことでした。他人に対して、生身の自分として関わるって、まして愛するって、本当は許されないかもしれないけど、夫に対してだけはいいだろうと思っている節がある。厳密に線を引きすぎると逃げ場がなくなってしまいますし、あまり健康的とは言えない愛情を抱えている部分もあって、夫をその捌け口にしているのかもしれません。

ときと場を共有する「もてなす」ことの楽しさ

向坂さんにとって、それだけ結婚が大きな出来事だったんですね。

暮らしの上での変化としては、料理をするようになりました。大好きになりましたね。掃除も手芸も苦手だけど、料理は失敗しても食べてしまえば残らない。それがいいですよね。すごく安いけれど品揃えがやや不安定なスーパーというのが好きで、そこにわざわざ行くのですが、必ずしも欲しいものが売っているとは限らないんですよ。たとえば三つ葉が欲しいと思って行っても、置いていないときがある。値段も日によって違って、鶏肉が安い日は豚肉が高い、みたいな。ある種の即興性が試されるんです。

あくまで結果としてですが、旬のものを食べることにもなる。安く売られていることが多いので。豊作とか不作とか、そんなこともなんとなく感じます。そうすると遠くにある自然とつながって、インタラクションを起こしてるような感覚がある。ひとりじゃない感じがして、すごく楽しいですね。

そのときそのときに手に入ったもので、どう調理してやろうか、みたいな。

そうですね。ライフワークというか、人生に良いものがひとつ増えたなという感じです。料理を作って、人をもてなすのも好きなんです。家族や数少ない友人を家に呼んでは、ご飯を食べさせたがります。私自身は下戸なのですが、お酒を嗜む人に特有の食べものとの付き合い方に憧れがあるんです。

「ペアリング」とか「マリアージュ」とかって言って、かっこいいじゃないですか。彼らは私の知らない食べものの楽しみ方をしているなって。だから「晩酌するなら家に来てくれ」と、義理の家族を強引に呼び出す“異常な嫁”と化しています。

素敵です(笑)。巷では「いかに義理の家族と距離を取るか」みたいな話ばかりが共感を呼んでいるので、そんな気の置けない関係性は貴重ですね。

夫とふたりだと、作る量も知れているじゃないですか。だけど本当は、「何か作りましょうか?」「もうちょっと食べられます?」と、無計画にどんどん作っては出し続けたい。たくさん作ってたくさん食べてもらえるのは、気持ちがいいですね。

贈りものをあまり喜べないとおっしゃっていましたが、料理はその場で一緒に楽しめるから、心地良いのかもしれませんね。大原さんのサンドイッチも、その場にいる方みんなでシェアできるものですし。

そうかもしれません。サンドイッチにも、彼のもてなしの心を感じたんです。そういう意味では、「もてなす」ことは嫌いではありません。自ら主催するライブにはもてなしの要素があるし、エンターテインメント性を大切にしているので、ある時間、ある場面を提供するのは、好きなのかもしれません。

ただ自分のやっている詩の朗読を「ライブ」と呼ぶことには、あまりしっくりきていないんですよ。便宜上、「詩の朗読を1曲やります」と言うことはありますが、「曲」とも「詩」とも違うし、「作品」というと指す範囲が広すぎる。去年見たお芝居で「出しもの」という言葉を使っていたのが素敵だなあと思って、私も心の中では詩を朗読する演目を「出しもの」と呼ぶことにしました。

そう考えると、「出しもの」性があることが好きなのかもしれません。みんなで集まる講座もそうだし、料理もそうだし、その場で時間やものを共有できるのが好きなのでしょうね。

流動体のなかにある、わずかな安全圏

詩や小説を書いているとき、読み手や受け取り手をどれくらい意識されていますか?

私の書いているときの感覚は、わりと一貫しているんです。ギターとふたりで詩の朗読とライブパフォーマンスをするのですが、早くからライブに呼んでくれるようになったのが、ヒップホップやメタルなどジャンルの垣根を超えたイベントを主催されていたikomaさんという方で。だから、私にとっての表現の原体験は、真っ暗なクラブで、私たちのことを観たことも聴いたこともない若いラッパーの男の子たちの前で、マイクを持ってフロアに向かって何か言う、みたいな感じだったんです。

誰も私たちのことを知らない、私を観に来たわけでもない。どうせ暗がりなので、向こうの顔も見えない。そのなかでも特に、すみっこにいるような人、中心にいたとしても心のうちではその場からこぼれかかっているような人に向かって、ただ喋るんですよ。みんなに、ではなくひとりの、そこにいる人に向かって喋る。みんなに向かっているときも、そういうひとりが必ずいると確信している。そんな感覚のまま書いているんです。表現の形は違っても、今でも全部同じですね。

そんな「アウェイ」の状態の中で表現を続けている感覚なんですね。

表現というか、生きている上でも常にありますね。ただ、最近はイベントに行くと、私を観に来た人しかいないので、逆にやりづらいんです。みんなウェルカムな感じなので、どうしよう、と。そういう意味ではやっぱり、ファンの方だけよりは、私のことを知らない人も来る講演のほうが好きですね。対談イベントとかだと、相手のファンやお知り合いの方もいたりするので。

音楽フェスならいろんなアーティストが出てきたりしますが、文芸でもそういうのがあるといいのかもしれませんね。

最近、そのikomaさんが「ジャンルを超えた誌面上の短歌フェス」というキャッチコピーの『胎動短歌』という同人誌を出していて、わたしも創刊メンバーのひとりなのですが、いいコンセプトだなあと思って。文芸誌もある意味、フェス的なんだなあと思いました。それはすてきなことですよね。アーティストや芸人の方が「名前だけでも覚えて帰ってください」とおっしゃったりしますけど、私としてはあまりそういう気持ちはなく、固定ファンになってほしいとも思いません。なんというか、その出会いの瞬間に、情緒的な質感のある想いが少しでも訪れていれば、それでいいかな、と。単発的にそういうのを繰り返していけたらいいなと思います。

先ほどものを「流動体」と捉えていらっしゃいましたけど、人に対してもそういう感覚をお持ちなんですね。

そうかもしれません。人に対しても、ごくわずかに強い執着を持つ相手がいる。ごく数人の友だちや家族が、そこで安定しているんですよね。流動体の中にわずかな安全圏がある。ただ、それも変わっていくものじゃないですか。人って変わるし、歳も取っていくし。

そのわずかな安全圏も、安住するものというより、変化していくもの、と。

私は非常にネガティブなので、今……2割くらいはまぁ幸せに死ぬ人生なのかなと思っているのですが、残りの8割くらいは、いつか不幸になると思っているんです。

2割はかなり低いほうですね……。

長生きしたいので、そう考えると2割くらいかな、と。結婚して、こうなってしまった以上、私と夫という「we」の主語で考えざるをえないんです。夫という個体、人格を持ったものに裏切られる想定は、今のところまったくしないでいるのですが、病気や事故など、何が起こるかわからない。人格は裏切らなかったとしても、人体は裏切りますからね。だから残りの8割は、夫と不幸になろうと決めています。そう考えるとそれもまた、ある意味では安定しているとも言えますし。でもそう言うと、夫は「不幸になるのは嫌です」と言いますけどね。

そういう覚悟を持てる相手と出会えたのは、本当にすごいことですよね。

非常にラッキーなことでした。再現性がありません。よく、「生まれ変わっても同じ人と一緒に」という人がいますけど、私は無理だと思いますね。生まれ変わったら、もうこんなラッキーは引き当てられないでしょう。

撮影協力:Brewbooks

向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人

1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学卒。「国語教室 ことぱ舎」代表。クマガイユウヤとのポエトリーリーディング×エレキギターユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。2022年第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、2023年初のエッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)を刊行。小説『いなくなくならなくならないで』は第173回芥川賞候補作に選出。朝日新聞、現代詩手帖など各媒体に詩や書評を寄稿するほか、国内外でさまざまな詩のワークショップを実施するなど、幅広く活動を展開している。