
書き手の想いやスタイルを尊重した丁寧な仕事ぶりで知られる、フリーランス校正者の牟田都子さん。校正の仕事について綴った単著『文にあたる』(亜紀書房)など、執筆活動も行う牟田さんが、2025年11月に『贈り物の本』(亜紀書房)というアンソロジーを刊行した。自身の物語を執筆するとともに、多様な書き手による「贈り物」をテーマにした作品に触れる中で、どのような気づきがあったのだろうか。牟田さんにとっての「贈る」という行為に迫った。
贈り物上手な人には「絶対かなわない」
今回『贈り物の本』を出版されましたが、牟田さん自身はよく贈り物をする方ですか。
いえ。実は、贈り物は苦手なんです。あまり贈り物をしない家で育ったので、クリスマスのプレゼントももらったことがなくて。「自分と贈り物は関係がない」と思って生きてきました。贈ったり、贈られたりする練習をしてこなかったから、いまだに苦手なのかなと思います。
贈り物には、練習が必要だと?
サラッとできる人もいるかもしれませんが、私はいつも決められなくて。例えば2024年に、同業者11組を取材した本(『校正・校閲11の現場』)を作った後に、取材先にお礼の品を送らなければと思ったんですが、本当に困ってしまって……。予算を決めても、いざ選ぶ段階になると「これでいいのかな? 足りないかも?」という風に、また迷ってしまうんです。
だから最近は、お仕事関係の贈り物は定番を決めています。でも、それでいいと思えているわけではないんですね。「贈った感」がないというか。「作業」になってしまっている気がして。
贈るのは苦手とのことですが、贈られて嬉しかったものは最近ありましたか?
『贈り物の本』のブックデザインをしてくださった名久井直子さんにいただいた、お菓子の入った小さなサンタの靴下です。以前、何人かで食事をご一緒した際、「いろんなメーカーがこういうお菓子を作っている中で、自分が一番フォルムが可愛いと思うのはこれ」と。
もらって負担になるような高価なものではないですし、ものを見る目のある名久井さんが一番かわいいと言うのだから、本当にいいものなんだろうと思えて。その靴下は今も大事に取ってあるんですけれど、見るたびに「こんな素敵な贈り物、私にはムリ、絶対かなわない!」って思いますね(笑)。

ポジティブなだけではない、「贈る」という行為の多面性
そんな牟田さんが、なぜ今回『贈り物の本』を出版することになったのでしょうか。その経緯や著者の選定基準などについて伺いたいです。
この企画は、長年ご一緒している編集者からの依頼を受けて始まったものです。お声かけするにあたっては、自分が日頃から愛読している書き手であることはもちろん、年齢も職業もできるだけ多様であることを意識しました。文筆を本業とされていなくても、何かの機会に文章を拝読したときに、もっと書かれてはと思った方にも依頼したので、書店の店長、画家、能楽師の方なども含まれています。「世の中にはこんなにすごい文章が書ける人がいるんですよ」というプレゼンの機会にもしたいと。
原稿をまとめているときに、編集者がこんなことを言っていました。「贈り物を選んだりもらったりする時間って、相手のことをすごく考えるから、こんなにいい原稿が集まったのかもしれない」と。確かに贈り物って、贈るときは「相手は何が好きだっけ?」と思いますし、もらったときは「どうしてこれを選んでくれたんだろう?」と考えますよね。贈り物の持つそういう性質が、原稿に影響した部分はあったのだろうなと思います。
多様なストーリーに触れる中で、ご自身の「贈り物観」は何か影響を受けましたか?
贈り物は必ずしもポジティブなものばかりではない、ということを改めて感じました。周りの人はもらえているのに、自分だけもらえていない状況になったとき。誰かに贈り物をしたいけれども、経済的な余裕がどうしてもないとき。ちょっと辛い気持ちになってしまうことはあると思います。
今回の書籍では、そういったハッピーとはいいにくいような思い出を書いてくださった方もいて、「贈り物って一面的なものではないんだな」と考えさせられました。
必ずしも贈り物は人をハッピーにしないというのは、見過ごされがちな部分ですね。
そうですね。特に残念なのは、贈り物がすれ違いを生むきっかけになりかねないことです。例えば、私がかつて通っていた料理教室の先生は、オーガニックな食生活を長年続けている方だったのですが、生徒さんがよかれと思って差し上げた手土産のお菓子が、添加物を含んでいて召し上がれないということがありました。それから、インテリアにこだわっているのに、世界観の合わない雑貨が実家なんかから送られてきたときも、「うーん……」という気持ちになる(笑)。
そういうすれ違いを解消するために生まれたのが、カタログギフトなのかなと思いますが、すべてそれで済ませてしまうのは寂しいと感じる気持ちもあるんですよね。
「贈る」という行為が一筋縄ではいかないからこそ、そこに贈り手の人生観が出るのかもしれませんね。
とても出ますね。自分がもらって嬉しかったものをストレートにあげられる人もいるし、相手の事情をものすごく考えてしまう人もいるし、欲しいものを言ってくれたら買ってくるよという人もいる。贈り物に関する行動には、その人らしさが反映されると思います。

本の影響はコントロールできない方向へ巡っていく
ここからは、贈り物の話から気持ちやモノの循環に話を移していきたいのですが、牟田さんはご自身の生活の中で、何かが巡っているなと思うことはありますか?
巡っていないものなんてないと思うんですけど、一つは本ですね。本はとても長い工程を経て出来上がるものです。著者だけでなく、編集者やデザイナー、DTP、印刷所、製本所など、多くの人がチームを組んで一冊の本を作っている。しかし、物としての本が完成した時点がゴールではありません。誰かの手に届き、読まれたときがゴールだと思っています。
そこで何をどれだけ受け取ってもらえるかは、著者ですらコントロールできないのですが、読者が何かしらの影響を受けることを考えると、本は「作って終わり」ではない。ずっと続いていくものなんだろうなと思います。
ご自身が執筆した著書も、巡っているのを感じましたか。
そうですね。しかも、想定外の方向で。初めての単著『文にあたる』を出版したときのことです。私は校正について書いたつもりだったのですが、この本を「仕事の本」や「働き方の本」として読まれた方がずいぶんいらっしゃいました。
確かに、最後の方に少しだけ「私はなぜこの仕事をしているのか」という話を書きました。いまだに校正を天職とは思えず、自信が持てないという話だったんですけれど、その部分を読んで「励まされた」と。
読者が著者の意図と異なるものを受け取ったという意味では、一種の「誤読」だと思うのですが、「励まされた」なんて言われると、なんだか不思議な気持ちになりますよね。そんなつもりはなかったのに。
受け止められ方をコントロールできないというのは、贈り物も同じかもしれませんね。
贈り物もそうだし、同じようなことは会話でもあると思うんです。なにげなく口にした言葉が、予想だにしなかった方向に人を動かしてしまうということが。それがネガティブな方向だと困りますが、今回のようにポジティブな方向に働くこともあるわけです。
ただ、その方向性はコントロールできるものではありません。行き着く先は相手の感情であり、相手の人生ですから、しかたがないですよね。
言語は“ままならない”ものと受け止める
校正のお仕事でも、コントロールの難しさは感じますか?
著者と校正者の関係性の中では、特に感じますね。校正の仕事は、Aと書いたものがBと読まれないように、そのズレをできるだけ小さくすることでもあるので、「このままだと意図と違って読まれてしまうかもしれません」と、ゲラ(校正のための試し刷り)の上で注意喚起をします。その指摘は受け入れられることもあれば、スルーされることもある。でも、著者の意向をコントロールすることはできませんし、してはいけないと思っています。
そのことは、自分が文章を書くようになって、反対の立場になったときにも感じました。私が書いたものに対して、校正者の方がプロとして一生懸命チェックをしてくださるわけですが、その指摘に違和感を持ってしまうことは、やっぱりあるんです。Aという場所の景色を撮った写真を見せたつもりが、相手が全く違うBという景色を見ていたということは、どうしても起きてしまう。言葉なんて不自由なものですから、しかたがないですよね。
少なからず葛藤も感じてこられたのではないかと思いますが、それを「しかたがない」と構えられるのはなぜでしょう?
決して割り切れているわけではないですよ。私だって、できれば誰ともすれ違いたくない。でも、誰も傷つけずに仕事をすることは不可能だと思います。私の指摘を的はずれだと感じる著者はいるでしょうし、この『贈り物の本』だって、読んだときに悲しい記憶を思い出したり、傷ついたりしてしまう人はいるかもしれない。そういうことは、どれほど気をつけても完全に防ぐことはできない。
でも、だからといって放り出すことはしたくないし、してはいけない。結局、“ままならなさ”を抱えたまま、自分にできることをやっていくしかないんだと思います。
今の時代はブランディングなどを通じて、自分の見せ方・見られ方をコントロールすることにこだわる人が多いように感じますが、予想と異なる受け止められ方をしたときに「しかたがない」と思えることも必要かもしれませんね。
確かに、伝えたいことをそのまま伝えたいという欲求は、今の世の中には強い気がします。だからこそ、それがうまくいかなかったときに摩擦が起きやすいのかもしれません。特にSNSのような言語空間では、「思い通りに伝わっていない」という感情の波立ちが、至るところで見られますよね。
近年「言語化」がもてはやされていますが、なんでも言語化できると思っていると、“ままならなさ”を受け入れにくいのではないでしょうか。私のような仕事をしていると、言語は本当に頼りないものだし、100%の言語化なんてできるはずがないと、身に染みているものですが。

いただいたものは、次の人に「まわす」
お仕事を通じて、何かを「贈る」感覚になったことはありますか。
校正は自分の本を作るわけではなく、あくまでもサポートする役割なので、そういう感覚はほとんどありません。ただ、執筆やこうして表に出る仕事に関しては、「贈る」と言っていいのかはわかりませんが、校正とは異なる意義を感じてやっています。
というのも、出版の世界には校正不要論が根強くあるんですね。人手も予算も必要な割に、売上に直結するわけではない。社員が何百人といるような規模の出版社でも、「もう校正はいらないんじゃないか」という話は定期的に出てきます。
そういう状況だからこそ、「いや、必要なんですよ」ということを、誰かが言っていかなければいけません。そうしないと、自分たちの仕事に関わるだけではなく、若い人がきちんと育ててもらえなかったり、劣悪な環境で働かなければならなくなったりした挙句、誰もこの業界に入ってこなくなってしまうかもしれませんから。
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演された校正者の大西寿男さんは、そういう未来を見越して個人的な発信活動をされているんだと思います。私もその背中を見てきたので、こうして発信の機会をいただけたときは、できるだけお受けするようにしているんです。
未来の世代に対して、贈っているという側面があるのでしょうか。
そこまで具体的ではありませんが、できることはやらなくては、と。もちろん、私が何かを発信したところで、すぐに世の中が変わるわけではありませんし、意図した通りに受け取ってもらえないかもしれませんが、だからといって、何もしないではいられない。本音を言えば、校正者としてゲラだけを見ている方が、よっぽど楽ではあるんですけれど(笑)。
冒頭では、プレゼントをもらった経験が少ないから贈り物が苦手なのかもしれないとおっしゃっていましたが、牟田さんが今こうして業界のために活動しているのは、やはり何かを受け取った経験があるからなのでしょうか。
確かに、いまこうやって動けているのは、これまでに受け取ったものの大きさがあるからでしょうね。校正者は普通の読書の何倍もの時間をかけて一文字一文字ゲラを読み、理解できないところや知らない言葉は徹底的に調べるので、本から影響を受けてこなかったはずはありません。そのせいか「自分一人でこれを抱えているわけにはいかない。次の人にまわさなきゃ」という感覚は、確かにありますね。
「贈る」ではなく「まわす」ですか?
アメリカの作家レイ・ブラッドベリに『たんぽぽのお酒』という自伝的小説があります。その中で、ある人に命を救われた主人公はこう言うんですね。「あなたがいまどこにいるにしても、さあお礼です、お返しです。ぼくは次の人にまわしました、ほんとです、次の人にまわせたとおもいます」。この言葉が、私の中にずっと残っている。振り返ってみれば、「受け取ったものを次の人にまわしたい」と思うようになったのは、この仕事を始めてからのような気がします。
つまり私は、いただいたものをまわしているだけなんです。贈り物は苦手ですが、それだけは続けていきたいなと思います。

牟田都子(むた・さとこ)
校正者
1977年、東京都生まれ。図書館員を経て出版社の校閲部に勤務、2018年より個人で書籍の校正を行う。著書に『文にあたる』(亜紀書房)、『校正・校閲11の現場 こんなふうに読んでいる』(アノニマ・スタジオ)、共著に『本を贈る』(三輪舎)ほか。