
ジャンルや形式に捉われず、幅広い領域で創作活動を続ける音楽家の蓮沼執太さん。自身が主宰する『蓮沼執太フィル』では、国内外での音楽公演を行うほか、映画や演劇、ダンスなど、さまざまな分野の音楽制作も手がけてきました。また「作曲」という手法を起点に、彫刻や映像、インスタレーション、パフォーマンス、ワークショップなど、音を超えた表現にも積極的に取り組んでいます。
そんな蓮沼さんにとって、「贈る」という行為はどのようなものなのでしょうか。普段の贈り物から音楽を通じて表現したいことに至るまで、さまざまな観点からうかがいました。贈り物と音楽に共通するものとは?
花と譜面。贈り物が生み出す循環
蓮沼さんは普段どんな贈り物をしていますか?
最近は花を贈ることが増えていますね。オフィスのある中目黒から学芸大学に向かう方面に、シンプルで落ち着いた雰囲気の花を扱う店が点在しているんですよ。いくつか種類を選ぶと3,000円ほどで自分好みの花束に仕上げてもらえるから、その気軽さとちょっとした特別感がすごくよくて。
もしかしたら「花を贈る」と聞くと、カッコつけた印象を持たれるかもしれませんが、花は相手が解釈する幅が広く、自分の感覚も反映しやすいからプレゼントとして贈りやすいんです。一昨日も、友人のお店のリニューアルに、アジサイに緑を合わせたアレンジメントを持参しました。
以前から花をよく贈っていたんですか?
いえ、この5〜6年で習慣になった気がします。おそらく年齢を重ねるなかで気持ちにゆとりができたんでしょうね。若い頃は人にプレゼントを贈るという発想自体がありませんでしたから。
何かきっかけがあったのでしょうか?
30歳を過ぎた頃、アメリカに長く滞在したことがあるんです。最初はマンハッタン、次にブルックリンという感じで。マンハッタンにいた頃はまだ花を贈る習慣はなかったんですけど、ブルックリンは高円寺や下北沢のようなローカルな雰囲気が漂っていて、公園のフェアマーケットで何気なく植物が売られているんですよ。そういう環境だと手に取りやすいから、自然と花が身近になっていったんですよね。

では、受け取ったもので印象的なものはありますか?
たくさんありますが、自分の活動に関連して言えば「譜面」でしょうか。音楽家にとって譜面は、過去から未来へと引き継がれていくものだと思うんです。
というと多くのものが当てはまりそうなので、もう少し個人に寄せた話をすると、僕が尊敬する一柳慧(いちやなぎ・とし)さんという音楽家がいます。
1950年代後半、アメリカの前衛音楽を日本に伝えた立役者ですね。
彼の代表作である『IBM』は、外付けハードディスクはおろかフロッピーディスクも存在しない時代に生まれたもので、当時データ保存に使われていたパンチカードを楽譜代わりに使用していました。これは今ではほとんど演奏されない貴重な記録です。
一柳さんがまだご存命の頃、僕がその作品に取り組みたいとお願いしたところ「いま現存している様々な図形譜面もあるので、それらと一緒に学ぶといいですよ」と譜面を送ってくださったんですよ。
現代の音楽シーンは、ヒット曲が中心で、そういうものは自然と後世に引き継がれていきますが、そうではない作品にもさまざまな残され方があるんですよね。そうした作品に触れ、受け継ぎ、次の世代へつなぐことで生まれる関係もあると思うんです。「贈り物」というテーマからは外れる話かもしれませんが。
とんでもないです。この『awahi magazine』では、まさに蓮沼さんがおっしゃるような循環の在り方がテーマのひとつになっています。受け取ったものを返すだけでなく、別の誰かに渡すことで広がっていく感覚を大切にしたいなと。蓮沼さんはオーケストラと一緒にパフォーマンスを披露する機会も多くありますよね。メンバーとのやりとりを通じて影響を受けることも多いのでしょうか?
そうですね。自分が気づかないうちに影響を受けていることは多いと思います。一人で作品をつくるときはすべて自分の判断で進めることができますが、オーケストラで活動するとなるとそうはいきません。『蓮沼執太フィル』には数十人のメンバーがいて、それぞれの意見や判断が自然と入り込んでくるわけです。そうすると、思いもよらない展開が生まれることがあります。たとえば、誰かがひとつ下のオクターブで弾いたら、それが楽曲に広がりをもたらすかもしれない。そうやって自分では生み出せなかったものが偶然立ち上がってくる瞬間に創作の醍醐味があると思うんです。
蓮沼さんは変化を受け入れることにポジティブですよね。その姿勢が活動全体にも通底しているように思います。
「自分は変わらないんだ」という発想は、頭の中だけの話のような気がしていて。実際、身体は自分の意思にかかわらず日々変化していくわけですから。だったら、変化が起きやすい環境に身を置いていたほうが面白いじゃないですか。
とはいえ、大人数で活動を続けるのは相当なエネルギーが必要ですよね?
それは本当に。お金もかかるし、事務作業も大変だし(笑)。効率や収益性を優先するなら、別の手法を選ぶべきかもしれません。それでも活動しようと思えるのは、人が集まって音を鳴らすことが、いつの時代、どんな場所でも、単なる音楽活動を超えた意味が宿ると考えているからです。
いまの時代は損得で物事を判断する人が多いですが、無駄が多いことで生まれるものもあります。集団での活動は大変ですが、大人になるとなかなか体験しにくい純粋な喜びや悔しさを味わえるし、時間を経る中で楽曲やオーケストラの在り方も変化していくから飽きがこなくて。また、そういった活動を自分のアウトプットのひとつとして持っておくことで、個人の活動も突き詰めることができるんですよね。もし何も起きないような状態で活動していたら、早々にやめていたと思います。


日常の中に非日常的な空間を作り出せるのが音楽
お話しをうかがっていて、蓮沼さんは常に変化を楽しんでいると感じました。だからこそ、変化していないこともありますか?
僕は頑固なところがあって、曲がったことが嫌いなんです。いつも直球勝負。そういう性格は、子どもの頃から変わっていないかもしれません。ブレずにいたいというか。
あと、自分なりの物事を見る視点は変わらず持ち続けたいと考えています。そもそも音楽って、誰かに聴かれてはじめて成立するもの。つまり、他者性が大切なんです。だから、俯瞰して物事を見る姿勢は常に持っていたいです。
時代性についてはどのように考えていますか?その時々によって、求められることも変化してきたと思うのですが。
最近はジャンルやカテゴリーが以前よりはっきりと線引きされるようになっているので、横断的な活動が難しくなっている感覚があります。「アート活動をしている」と「音楽活動をしている」では、別の人間だと見なされてしまう。そうやって流通システムがどんどん「これはこれ」と分けていくことで、作り手は自由に発信してるつもりでも、受け手に届く情報に差が生まれていると思います。それに対して息苦しさを感じることはありますね。
ただ、僕自身の創作活動についていえば、時代性を意識して楽曲を作っているわけではないので、あまり関係ないかもしれません。一方で、音を聴くメディアは常に進化しているし、音にもトレンドとなる質感があるんですね。そういうものはうまく取り入れていきたいなと思います。
では、蓮沼さんが満足感を得られる瞬間はどんなときなのでしょうか。たとえば、楽曲制作は個人的な営みである場合もあれば、より多くの人に聴かれることを想定する場合もありますよね。
両方の側面がありますよね。現代は、より多くの人に届くものがいいものとされる傾向が強く、実際に数が力になる恩恵を僕自身が受けたこともあります。一方で、一人ひとりにきちんと届けることも重要です。実はいま、聴力が低かったり、無い人が音楽をどう捉えるのかをテーマにした作品づくりに取り組んでいるのですが、「聞こえない」といっても人によって程度が違う。では、何を基準に楽曲を作っているのかというと、やっぱり自分が満足できているかどうかなんですよね。そのうえで、完成した楽曲がきちんと羽ばたけるようにできたらと考えています。
それぞれの曲ごとにふさわしい場を用意するようなことも考えますか?
そうですね。たとえば、僕はフィールドレコーディングにも取り組んでいるのですが、それは人に共有するものというより僕が聞いたものの記録だと思っているので、誰かに聴かせたいとは考えていないんです。一方で、多くの人に聴かせたい楽曲の場合は、人が集まってくることも想定しないと大変なことになってしまうので、可能なかぎり集める努力はしたいと思います。
いまの話に関連することとして、蓮沼さんはGINZA SONY PARKやTODA BUILDINGなど都市を舞台にして演奏することもありますよね。そうした開かれた場所で演奏することの意味をどのように捉えていますか?
日常の中に非日常的な空間を作り出せるのも、音楽の魅力のひとつだと思うんです。これがパフォーマンス・アートだと、ある程度の文脈や知識が必要になるんですけど、音楽はもう少し一般的なものとして機能するので、僕の活動に興味を持ってくれている人だけでなく、偶然その場に居合わせた人たちに向けても音楽を届けることができます。
TODA BUILDINGでパフォーマンスしたときは、知り合いが「京橋駅に着いた瞬間に音が聞こえてきて、近づくにつれてどんどん大きくなってワクワクした」と感想をくれたのですが、そうやって生の音が街を突き抜けることで環境を変える要素になれたらと考えています。
実際、周囲の空気が変わると感じるのはどんな瞬間ですか?
本番はもちろんなんですけど、個人的に面白いと思うのはリハーサルですね。サウンドチェックのために音を出していると、通りがかった人たちが「なに?なに?」と集まってくるんですよ。次第に海外の観光客がノリノリで自撮りをはじめたり、おじさんがちょっとしたボケを交えて覗き込んできたりしてくる。そうやって普段と違う何かが起きる瞬間こそが、その人の人生にちょっとした影響を与えるんじゃないかと思うんです。演奏している最中は、あんまり実感できていないことも多いんですけど。
実感できていない、というのは?
演奏中は指揮をしながら演奏もしているので、正直なところ周囲のことまで気にする余裕がないんです。ただ、お客さんと一体になる瞬間は間違いなくあって。この前もステージの周りを客席がぐるっと360°囲む構成のライブをしたのですが、僕たちが演奏に集中しているときにお客さんも同じように集中していることが空気感で伝わってくるんですね。そういう一体感を感じることができるのは、音楽の醍醐味だと思います。

誤解によって生まれる視点や解釈の違いが面白い
蓮沼さんはコンテクスト(文脈)をどう捉えていますか。蓮沼さんのパフォーマンスは、日々の練習やメンバーとの対話、そして思考の積み重ねといった背景があってこそ成り立つものですよね。だからこそ、その文脈ごと届けたいという思いもあるのではないかなと。一方で、蓮沼さんは偶然性を楽しんでいる印象を受けました。コンテクストを知らなくても、音やパフォーマンスそのものから何かを感じ取ってもらえればいいとも考えているのかなと。蓮沼さんとしては「文脈を大切にする自分」と「文脈から自由でいたい自分」が共存しているような感覚があるのでしょうか?
興味深いですね。本質を掴む手段としてコンテクストは必要だと思います。なぜそれが生まれたのかという背景を知ることもできるし、過去から受け継がれてきたものでもありますから。自分がつくる作品にも確かにコンテクストがあり、いくらでも参照元や背景を示すことはできます。
ただ、そのことに対して「文脈を知ってください」とか「これが前提です」と押し付けるのは違うと思うんです。なぜかというと、コンテクストの理解を強制してしまうと誤解が生まれなくなってしまうんですよね。誤解があるからこそ、自分とはまったく違う視点や思ってもみなかった解釈が生まれます。だから、どんどん誤解をしてほしい。
誤解をしてほしい、という発想は面白いですね。普通であれば、誤解はなるべくしてほしくないものとして扱われることのほうが多いように感じます。
それは僕自身に向けられたものではなく、作品に対してです。作品は完成した瞬間、自分とは切り離された「作品さん」というある種の人格を持った存在になるんですよ。だから、受け取る人によって見え方が違っていいし、時には異物みたいに扱われてもいいと考えています。
贈り物も同じだと思うんですよね。相手のことって完全には理解できないじゃないですか。だからこそ、自分の気持ちを伝える手段として贈り物がある。ただ、それが的を射ていることもあれば、的外れのこともあるわけで、そのわからなさは音楽も贈り物も共通している気がします。
確かに、贈り物も「あれ、意外とこういうものが好きかも」と自分では気づいていなかった好みに出会えることがありますよね。思いもよらない角度からの投げかけによって、新しい発見が芽生える。そうやって受け取り手の中から立ち上がってくるものがあるように思いました。
『awahi magazine』のawahiは「間」のことですよね?僕はこの「間」という概念がけっこう好きで。人は境界線を引いて「あっち」と「こっち」を分けてしまいがちですが、その境界の間にある空間が広がることで、新しい領域や豊かさが生まれることもあると思うんです。芸術においても、答えがひとつではない緩やかな緊張感のある「間」が存在することが大切な気がします。
そもそも僕自身、いわゆるミュージシャンとしてのサクセスストーリーみたいなものにはあまり興味がないんです。生き方は人から教わるものでもないと思うので、自分なりに失敗と成功を繰り返しながら、いろんなことを積み重ねていけたらいいですよね。

蓮沼執太(はすぬま・しゅうた)
音楽家/アーティスト
1983年、東京都生まれ。蓮沼執太フィルを組織して、国内外でのコンサート公演をはじめ、映画、演劇、ダンス、CM 楽曲、音楽プロデュースなど、多数の音楽を制作。また「作曲」という手法を応用した物質的な表現を用いて、展覧会やプロジェクトを行う。第69回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。