
人はなぜ、何かを「神聖なもの」としてみなさずにはいられないのか。キリスト教思想を専門とする哲学者の柳澤田実さんは、人間が持つ「神聖なもの」に「自分を捧げたい」という心理を、宗教だけでなく、推し活やファンダム、ポピュリズムといった現代の現象のなかにも見出してきた。話を聞いていくと、福音派の信仰と推し活、70年代のニューエイジとSNS、投げ銭と祈りといった、一見まったく関係のないものが次々と繋がっていく。私たちはなぜ「捧げたい」のか、そしてその気持ちはどこへ向かうのかを聞いた。
「捧げたい」を持て余している
今回は「言葉と物語」をテーマにお話をうかがっていきたいのですが、柳澤さんの専門である宗教学という観点から、「贈与」あるいは「ギフト」という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?
「贈与」は、私がずっと興味を持っているキーワードの一つです。
私は宗教や哲学、特にキリスト教思想を中心に研究しているのですが、一貫して関心があるのは「人間の“無償性”を成り立たせているものは何か?」という問いでした。言い換えれば、どうして人は「無償で誰かに何かを捧げたい、与えたい」という心理を持つのか、ということです。
それは神への奉仕など「宗教」という形で表れることもあれば、全く別の、「真理」のための学問や「人権」のための政治活動という形で現れることもあるでしょうし、もっと日常的なちょっとした自己犠牲であることもあります。この無償に自らを捧げる対象を求める心理は、進化心理学の領域などでも「神聖な価値(sacred values)」という概念で議論されています。
最近注目している「推し活」は、神聖な対象に「無償に自分を捧げたい」というこの心理が、現代の消費社会の中で表出したものだと私は捉えています。この心理がここ数年で、「選挙や政治で人々を動員するのにも有効だ」と多くの人が気づきはじめて、日本を含む世界各国の政治で、支持者がファンダム化する現象が広がっていったのではないかと考えています。
「何かを無償で与えたい」という人間の心理が経済や政治に利用されてしまっているのが、現代社会の諸相であると。
そうですね。そもそも人間には「すべてを経済的な価値に還元したくない」という欲求があり、それが「神聖な価値」を何かに投影する心理と結びついています。けれども今の時代、ほとんどの領域が消費社会の経済的な論理に組み込まれていて、そこから外に出られる場所がほぼなくなってしまっていますよね。
かつて社会には共通了解として、「ここは無償で居ていいよ」と、安心感を得られる領域、「親密圏」が存在していました。例えば、家族とか、地縁血縁共同体とか、宗教的なコミュニティとか。もちろん、それは個人への抑圧として働く場合もあったわけですが、少なくとも「損得抜きで他者と関わることが推奨される場」が社会に存在していたわけですよね。
ところが今は、そういう「親密圏」さえ、個人の努力で頑張って選択しないと手に入らなくなってしまった。同時に、経済原理中心の社会では「自分を捧げる」ことは依存だったり、端的に「損すること」だと否定的に捉えられがちで、推奨される生き方にはなっていません。
結果、みんな「捧げたい」という自然な気持ちを持て余していると思います。そこに「自分を捧げる」ことが推奨される仕掛け、推し活や投げ銭が登場すると、みんな、釣られてわーっとそこに向かっていくし、選挙でも、政策云々ではなく、感情移入できて応援したくなる候補者の方に流されているように見えます。
その状況を柳澤さんはどう見ていますか?
様々なことが推し活化する背景にあるのは、やはり個人の注意を長時間拘束するSNSやインターネットの影響が大きいと思います。同時により広い文脈で捉えると、経済原理に支配された社会で「無償で何かを与えたい」という根源的な欲求を、私たちは行き場なく抱え込んでいるということがあるかのかなと。
その行き場のない「捧げたい」心理が、政治や経済の領域で人集め、マーケティングの道具にされるようになって、一方で個人主義が進み、一人でいる時間が増える一方で、他方では、ますます集団的に動員されるようになっているのだと思います。推しとの関係に没入しているたくさんの「個人」が、「集団」で動かされているような状態かもしれないですね。

与えることで得られる、思いもよらない「信頼」
何かに捧げたいという気持ちを「持て余している」というのは興味深いです。その言葉の意味するところをもう少し聞かせてください。
人間に「捧げたい」心理が自然に備わっているとして、それをポジティブに活かすプラットフォームとして、「やはり宗教は結構優秀なのでは……?」という意見が、最近、欧米の社会科学者たちから示されています。
イギリス人の経済学者ポール・シーブライトが書いた『ビジネスとしての宗教』(東洋経済新報社)という本があるのですが、宗教を「プラットフォームビジネス」として分析しているんです。つまり、人間関係を促進するプラットフォームとして宗教を捉えている。
面白かったのが、宗教の信者たちが得るのは、特定の信心や不安の解消よりむしろ「信頼に足る人間関係」だということでした。そして、これは人間関係自体を目的にしたプラットフォームでは得られないものだとシーブライトは言っています。
例えば、経済的に貧しい若い女性が、毎週教会でボランティアをしているとします。一見、経済的には不合理な行動に見えるかもしれませんが、彼女はそこで職場では出会えないような人間関係を築けたり、良いパートナーを見つけられたりする可能性が高くなる。こうした信頼に足る人間関係は、人間関係を目的にしたマッチングアプリなどでは得られないものなのです。神仏のために「無償で」その場に関わる人が集まるからこそ、結果的に信頼できる人間関係が築けるわけで。
このご時世、「無償で何かをする」のは誰かのカモにされそうで怖いことなのですが、自分が本当に欲しいものは、自分がまず与えないことには得られない。それを保証するプラットフォームが必要なのだと思います。
それは推し活にも同じことが言えるのでしょうか?
推し活はたぶん、そうはなっていないですよね。無償で与えたい心理を出発点にしながら、充実感や生きがいなど「自分が何かを得ること」に帰着する形式に落ち着いているようにも見えます。
教会のボランティアの場合、まず与える。その結果として、思いもよらないものとして信頼できる人間関係が返ってくる。「自分が欲しいものを目的にした瞬間に、それは手に入らなくなる」という逆説なんですよね。もちろんそれは必ずしも宗教である必要はないのですが、そういった無償で与えられる場がどんどん少なくなっているのが、今の状況なんだろうなと思います。

宗教的な場といえば、日本では1995年にオウム真理教の事件がありました。この30年間でどのように状況が変わったと見ていますか。
オウム真理教は、1970年代のニューエイジ思想から生まれたカルトだったわけですが、この時代に生まれたニューエイジや現在のスピリチュアルの特徴は消費文化と密接に結びついている点にあります。伝統的な宗教とは違って、「宗教美術」や「宗教建築」のようなものが存在せず、建物も世俗のものとあまり変わらず、購入できるグッズなどの消費財が多いのも特徴です。
こうした70年代思想にルーツを持つ文化に共通しているのは、「自分」にずっと向き合い続けるということ。「自分を変えること」を中心にしたいわば“自意識過剰系”のカルチャーです。同時期に流行ったセラピーもそうですし、キリスト教右派の福音派の没入型の礼拝、そしてシリコンバレー発のインターネットも、自意識の拡張を目指す70年代カルチャーの影響下で生まれました。
つまり我々は、70年代から脈々と続く「自意識の拡張」を目指す文化的系譜の中にずっといるのだと。
そう思います。Instagramでもなんでも、SNSで語られる話は結局ゴールが「セルフラブ」で終わっちゃうことが多いですよね。推し活もウェルビーイングのために良いという評価が定着しているように、「無償に捧げる」文化が出てきても、最終的に「それは自分のため」となってしまう。様々なカルチャーが流行しますが、この傾向はずいぶん長いこと続いている気がします。
けれどもいま、面白い変化も起きています。自意識の拡張でしかない文化に生まれた時から触れてきたZ世代の若者が、そこから脱出しようとしているようにも見えるんです。
若者たちはどのように「出よう」としているのでしょう?
例えば、アメリカでは若い世代、しかもニューヨークのような都会で、流行に敏感なヒップスターが、カトリック教会に回帰しています。
アメリカの建国に関わった主流派プロテスタントは「言葉重視」です。プロテスタントが欧州の識字率を高め、西洋人はより抽象的なことを理解できるようになり、近代化が起こったと言われています。一方で、カトリックは、言うなれば「感覚重視」なんです。お香を焚いたり、典礼を重視したりというのが特徴です。また、プロテスタントが人間の主体性を強調するのに対し、カトリックは神の与えてくれる「恵み」とそれに対して人間が自分を放棄し、「捧げる」ことの重要性を強調します。
つまり、いま「言葉重視」派のプロテスタントが衰退してきて、10代や20代の子たちの一部が、感覚的で「捧げる」傾向の強いカトリックに回帰している。しかも、それがアメリカだけでなく、イギリスやフランスのような世俗化が進んだ国でも起きている。すでに信仰を持たないことが普通になった世代の子供たちが、です。
もちろん大多数の若者がカトリック回帰することは考えにくいですが、一部の若者の近代以前の文化への自発的な回帰現象には大切な何かがあるように思います。日本の場合、「捧げたい」心理の受け皿となる伝統的な宗教がないから、若い子たちが推し活に向かうんだろうなと感じています。
言葉を「文字通り」にしか受け取れなくなっている
推し活やファンダムについての話を深めたいのですが、好きなカルチャーはあるけれど、特定の誰かに没入するような「推す」感覚が自分にはあまりありません。ファンダムに入っていく人たちが、そこに何を求めているのかが気になります。
まず先ほどからお話ししているように「献身したい」という心理が基本だと思うんです。ただ同時に、その献身のあり方は、現代の消費社会、情報化社会のなかで変わってきていると感じます。アイドル(Idol)とは「偶像」の意味ですが、文字通り偶像崇拝的になっていると思います。
私がもともとファンダムや推し活のような現象に興味を持ったのは、アメリカのキリスト教福音派の人たちの信仰が、ものすごく推し活に似ていると思ったからなんです。
20世紀前半までの伝統的なキリスト教では、カトリックであれプロテスタントであれ、神は抽象的で超越的な存在で、日常的なことを相談する相手ではありませんでした。ところが現代のアメリカの福音派のキリスト教信者は人間らしいリアルなイエス像を想像し、「髪型をどうしよう」「スポーツカーが欲しい」など、ものすごく日常的なことを、ベストフレンドみたいな距離感で相談しているんです。
加えて福音派の人たちは基本的に、聖書を「文字通り」に理解することを自分たちの立場にしています。神が「光あれ」と言った、だから光が物理的に生まれた。そういった文字通りの受容です。その延長線で、進化論を信じないというところまで行ってしまうわけです。
すなわち、言葉を複数のレイヤーで受け取れなくなっていると。
そうなんです。福音派のキリスト教徒は、あえて「テキストを文字通りのレベルでしか理解しない」ことをやり始めた。それこそが自分が信仰している対象に「忠実」であることだ、という態度なんですね。
中世から近世にかけてキリスト教世界やイスラム教世界では、聖典を解釈することで文化が発展していきました。いろんな人がテキストを読み解き、そこに新しい意味を見出すことで、思考が深まり文化が豊かになっていった。けれど「文字通り」に信じるというのは、その解釈の余地、「あわい」を閉じてしまうことなんですよね。
偶像崇拝も単一のレイヤーで対象を崇拝することを意味します。その対象がアイドルに向いているぐらいであれば、「なんかやってるな」程度で済むかもしれません。ただ、それが政治家に向けられるようになり、推し活選挙が繰り広げられるようになって、不安に思う人が増えたように思います。政治家を偶像として「推し」て、言っていることを、べたっと「文字通り」に信じる支持者が増えているように思います。
祈りが叶うかどうかは、本質的な問題ではない
なぜ私たちは言葉を「文字通り」にしか受け取れなくなったのでしょう。
「今・ここ」から離れられなくなっていることが大きいと思います。
消費活動は「今・ここ」に私たちを縛るものでもありますが、私たちの情報環境、スマホの常時接続やショート動画は一層、「今・ここ」に私たちの意識を縛り付けていると思います。古代のある時期に人間は「今・ここ」を離れて、この世を超えた存在や価値について考えられるようになって、抽象的な概念や理論を理解できるようになり、そこから長い年月をかけていわゆる近代化のプロセスを歩んできました。ところがテクノロジーは発展したものの、現代の消費社会、情報化社会が、また「今・ここ」に人々の認知を縛り付けるようになっている気がします。
YouTubeで推しに投げ銭するのは、まさに「今・ここ」にある対象に物理的に金銭を捧げる行為ですよね。でも、「いつかは実現する目に見えない価値に貢献している」と思うためには、「今・ここ」を離れたもう一段階メタな認識が必要です。
キリスト教なら「天に富を積みなさい」と言いますけど、「今・ここ」の利益よりもこの世を超えた何かのために自分が献身しているとリアルに信じることは、認知的にかなり困難なことですよね。「神」もそうですけど、社会の中の理念、「人権」や「民主主義」でも同じことです。
よく日本人は「人権」概念がわかっていないと言われますが、感情移入できる隣の人に優しくすることは簡単でも、「人権」をリアルに感じて実現のために努力することは簡単ではないのです。しかも私たちの情報環境は、そうした「今・ここ」には存在しないことをリアルに感じる能力を、限りなく削いでいっているのではないでしょうか。
かつてのインターネットには、誰にも頼まれていないのに好きなことをものすごい熱量で長い文章にしている人がいましたよね。あの頃には「今・ここ」を離れた何かがあった気がしているのですが、「書く」という行為にまだ何かが残されていると思いますか。
その感覚はすごくわかります。書く行為にはそういう効果はあると思います。
関連して、ここで少し「祈る」という行為の話をさせてください。私が翻訳した書籍『リアル・メイキング』(慶應義塾大学出版会)の著者、宗教人類学者のターニャ・ラーマンは、祈りについてこう指摘しています。祈りというのは、実はメタ認知なのだと。
つまり、祈ることの本質は、それが叶うかどうかとは関係がなく、自分の願望を一度外に出して、公共的なものとして自分がもう一回それを見る、という認知のプロセスにあるのです。「叶わないのに祈るなんて馬鹿みたいだ」と思う人も多いかもしれないけれど、自分の考えや願いを客観的に見ることで、それを修正したりすることは、人間の認知プロセスとしてはものすごく意味があるということなんです。
自分の内にあるものを一度外に出して、それをもう一回眺める。
そうです。SNSで思ったことを即座にそのまま発信するのとは違って、一旦自分の中にあるものを自分の前に出して、それをもう一回見る。それだけのことで、「今・ここ」を離れていく認知的な営みが実現しているということなんです。
だから、祈りと同じようなことをするために、別に何かの宗教に入る必要はなくて。思考を記述するという行為自体が、自分の中にメタ認知を立ち上げるきっかけになりうると思います。そういうことでもしない限り、私たちはほとんどの時間、本当にベタッと「今・ここ」に張り付いてる状態になってしまっています。言葉というものは、書くことで私たちの思考を一段レベルを上げて、またさらに上っていく足場となる。それは間違いないと思います。

ただ、こうした話はすぐに「デジタルデトックスしよう」みたいな素朴な結論になりがちだと思います。
なりがちですよね。でも逆に言えば、実はとても簡単な理由で人々がメタ認知をしなくなり、結果として消費活動や政治活動が推し活化したり、より極端な場合はカルト化するような状況が生じていると思うのですよ。政治まで含めると、それが現在の社会的混乱を引き起こしていることは否定できないですね。
現在、欧米では若年層のSNS利用の年齢制限の議論にまでなって来ましたが、SNS以降の情報環境の限界はだいぶ明らかになって、AIまで投入されたいま、次にどうするかが問われているのは間違いなさそうです。
政治活動、経済活動がカルチャーとシームレスに重なり合って、無数の「宗教」が生まれているように見えること自体、様々な領域が区別なく連続するインターネットに特有の現象でもあります。こうした状況で推し活がいかに宗教の役割を代替しているように見えても、原理的に誰かが誰かに勝つために動員される政治や、報酬を目的とする経済活動によって私たちは完全に救われることはないと思います。利害関係を超えたいという願望は、利害関係そのものである政治や経済では満たされないからです。利害関係の外部を模索するのが正解だと思います。
アメリカでは、現政権が掲げるナショナリズムとキリスト教ががっちり結びついてしまいました。そうなると、実は結構な数の人たちは政治と結びついたキリスト教会からちゃんと離れて行くのです。そして、その外部を求めて新しい教会が興隆して来ます。昨年はそのような新しい教会を幾つか見ましたが、アトランタのアフリカ系アメリカ人の牧師が率いる9割黒人で、1割が白人という人種構成も新しいその教会は急成長しCNNでも取り上げられました。この教会の牧師はアメリカ国内の分断状況を嘆いて、「自分は保守的な立場だけれど、政治も経済もこの国の人を救わない」と説教中に涙ながらに語っていました。
もともと人間に備わっている「捧げたい」という心理は、とにかく最初に勇気をもって与えてしまうことによってしか良い結果に結びつかない。逆にそれさえあれば、利害関係の外部に自ずと出ていくことになります。宗教に限らず様々な変革はこうした心理から始まることが多かったと思います。ですので、人間が自然に持つ「無償で何かを与えたい」という心理が状況を打開していくことに期待し続けていますし、そうした気持ちを励ます雰囲気(バイブス)を盛り上げて行きたいと思っています。

柳澤田実(やなぎさわ・たみ)
1973年ニューヨーク生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)、南山大学准教授などを経て、関西学院大学神学部准教授。専門は哲学・宗教学。宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係を中心に研究している。訳書にターニャ・M・ラーマン著「リアル・メイキング いかにして『神』は現実となるのか」(2024年、慶応義塾大学出版会)など。


(特集)
「言葉」と「物語」
私たちの社会において、「言葉」は意思を伝える最も重要なツールであることは疑いようがない。しかし、「見る」「聞く(聴く)」「話す」「書く」などの要素が複雑に絡み合うことによって、「言葉」という語義以上のグラデーションや広がりがあるのかもしれない。伝え方や届け方、言葉をめぐる現象や事象、響きや造形、そこから立ち上がる「物語」のあわいをさまざまな角度から探索する。