
グラスに注がれた水道水を口に含み、「鏡の味がする」など独自の視点で次々と“説明”していくYouTube動画で注目を集めたお笑い芸人の鈴木ジェロニモさん。芸人として舞台に立つようになり、言葉と身体の関係にモヤモヤしていた頃に短歌と出合い、歌人としての活動も始めた彼は、「言葉」というメディアが持つ力や不完全さと向き合い続けてきました。
SNS上で言葉が独り歩きし、一人ひとりの身体や感情を置き去りにしてしまうような時代に、一貫して自分の内面にある感情と向き合い、その機微を誠実にすくい上げてきたジェロニモさんの経験や視点を通じて、言葉と身体、あるいは感情を巡る豊かな関係性を探ります。
言葉には意味がなくてもいい!?
ジェロニモさんが言葉への関心、あるいは違和感のようなものを持ち始めた原体験があれば教えて下さい。
小学校3年生の頃に野球を始めて、中学でも野球部に入ったのですが、全校生徒が1000人くらいのマンモス校で、野球部も1学年20人くらい。当然、下級生はベンチにも入れず、1年生の時は学校の外周を走り続ける日々でした。先輩からはランニングの掛け声として「1、2、1、2」と言うように命じられ、さらに監督がグラウンドに出てきたら、帽子を取って「おっしゃーす!」と言えと。
「お願いします」という意味ですよね?
はじめはそうだったはずですが、それが慣習化して「おっしゃーす!」になり、「みんなが言っているんだから、こう言わなきゃダメだ」と形式だけ踏襲されるようになったのだと思います。「意味わかんないな」と思いつつも、そういうものとして3年間「おっしゃーす」と叫んでいました。その時に、「言葉って意味がなくていいんだ」という驚きがあったんです。言葉の内容よりも、音量や形式の方が重要なんだと。自分では完全に納得しているわけではないけれど、社会ではそういうことになっているということが、言葉への最初の違和感だった気がします。

もともと言葉に対する意識や関心は強い方だったのですか?
当時は全然読書をするタイプではなく、兄の方が勉強もできて、ずっと本を読んでいるような人でした。それに対して僕は、野球をしたり、友達とふざけたりすることに面白さを見出していました。だから、テキストとして書かれた言葉よりも、慣習化された挨拶だったり、先生の口癖だったり、身体的な実感を伴う「市井の言葉」に面白さを感じていました。
それはいまのお笑いの仕事にもつながっていそうですね。
小・中学校の頃に、アンガールズさんの「ジャンガジャンガ」が流行っていて、友達と真似をして遊んでいたのですが、僕の中での正解は、アンガールズさんのあの「尺」なんです(ジャンガジャンガ、ジャンガジャンガ……ジャガジャジャーン)。でも友達は、「ジャンガジャンガ」の回数が少なくてもできていることにしてしまう。当時の僕は、サンプリングするなら適切な音数や「間」で再現しないと、本来の面白さを毀損してしまうと感じていました。人によってヒューマンエラーが起こることや、言葉と身体が一致していないことに違和感がありました。
芸人というのはまさに言葉と身体が切り離せないような仕事ですよね。
そうですね。芸人を始めてから気づいたのは、自分が面白いと思う言葉を、このくらいだなと思う音量で発しても、お客さんに聞こえなければ成立しないということでした。養成所でも「大きな声で言わないとわからない」と指導されるのですが、声を張り上げて自分のネタのフレーズを言うと、自分が思っている面白さとは別物になってしまう。さらに、その言葉自体は面白くても、それを言っているヤツの見た目やキャラとギャップがあると、お客さんがストレートに笑えないこともある。そういうことが舞台に立って言葉を発するとたくさん起こるんです。
身体から“解脱”できる短歌との出合い
短歌を始めるようになったのは、いつ頃からだったのですか?
芸人になって2年ほど経った頃です。芸人を続けていくうちに、自分が本当に思ったことを言うよりも、「コイツはこういうことを言いそうだな」ということを言うことが、芸人としての「正解」だと分かってきたんです。人にウケるために言葉を発する芸人には、お客さんが求めていることを「その人らしい言葉」で裏切ることが大事で、常に「見られる身体」であり、「期待される言葉」を発する存在であることが求められるんだと。そこに少し不自由さを感じていた時に、自分が面白いと思っていることをそのまま言える場所として一番ハマったのが短歌だったんです。短歌であれば、身体から“解脱”した言葉を純粋に手渡せるかもしれないと。
俳句や詩、ラップなど、言葉を扱う表現は他にもありますが、なぜ短歌だったのでしょうか?
きっかけは、歌人の木下龍也さんと岡野大嗣さんの共著の展示イベントでした。それまで短歌には、情愛を歌い上げるようなイメージがあったのですが、そこで木下さんの「こんばんは昨日のぼくの握力のまま冷えているトマトケチャップ」という歌に出会ったんです。
一人であることを実感する凄い歌だと思うのですが、これは芸人のエピソードトークなどでは取り上げづらいんですよね。「合コンで振られた!」なら大声で言う理由がありますが、「ケチャップが自分の握った形のまま冷蔵庫に入っていたんですよ!」なんて大声で喋ることじゃない(笑)。そうした「大声で言わない面白さ」が、短歌という形式の中に埋め込まれていると感じたんです 。
お笑いと短歌では、言葉の「伝わり方」にも違いを感じますか?
短歌を始めて驚いたのは、自分が想定していなかった読み方をされることが普通に起こることでした。短歌は三十一音という制限があるから、書き切れない要素がたくさんあるのですが、それが逆に良いんです。例えば、喫茶店のことを書いているつもりではない歌に、「喫茶店の風景が浮かんで良かった」という感想をいただく。お笑いの世界なら意図が伝わっていないので「ミス」ですが、短歌の場合はそれも「正解」だという感覚があって、「本当は喫茶店の歌だったのかもしれない」という気持ちになってくるんですよね。
つくり手の意図を超えて、世界が広がっていくような。
そうですね。自分が見ていた世界の切り取り方はある一面でしかなく、想定外の受け取られ方をすること自体が面白いんだと。その後に出した「水道水の味を説明する」という動画もその延長にあります。特に脚本も用意せず、その場で思ったことを口にするだけなのですが、見てくれた人が「自分もそんなことを思っていた気がする」と感想を書いてくれたりする。
それまでは、自分が構成した言葉を完璧に伝えることが気高い行為だと思ってお笑いをやっていましたが、むしろ自分でも何を言うか分からない、どう受け取られるか分からない表現の方が、結果として多くの人に届いた。そこで自分の価値観の大きな転換がありました。

自分の内にある微細な感情を表す言葉
ジェロニモさんの説明動画を見ていると、ご自身の感情を微細にモニタリングしている様に面白さを感じます。
僕は、「感情が見えない」「動いてなさそう」と言われることが多いんですね。でも、それこそ水道水を飲んでいる時だって、小さいけれど逐一感情は動いているんです。それを言葉にすることで、自分の心が動いていることを表明したいというのがありました。感情が表に出やすい人は、「いまあなたはうれしいんだね」と周りの人が察してくれますが、そうではない僕は自分で提示するしかない。それが結果的に自分の感情を見つめることになったのだと思います。
人は自分の感情にどこまで向き合えているのか、周囲の言葉によって自分の感情が規定されていないか、ということを考えさせられるお話です。
例えば、「絶対に泣ける映画」みたいな触れ込みがありますよね。マーケティングとしては理解できますが、「泣く」という感情があらかじめ用意されていると、実際にそれを見て泣ければ安心できるかもしれないけど、逆に泣けなければ「自分はやばいかも」という気持ちになるかもしれない。でも、本当に大事なことは、「なぜ泣けなかったのか」「そこで自分は何を感じたのか」を見つめることだと思うんです。
感情をそのまま表明するための言葉選びで大切にしていることはありますか?
できるだけ自分の中に浮かんだことを忠実に伝える言葉を発したいと思っています。でも、真実そのものを言葉にすることは多分不可能で、言葉はすべて「真実の二次創作」だという感覚があります。仮に、「丸いおにぎり」を真実だとしたら、その周りに言葉という「海苔」をペタペタと貼り付けていくことで、できる限り真実に近い球体を取り出したいという気持ちがあります。
例えば、水道水について「鏡の味がする」と言うと、ポエティックだと言われることもあるのですが、別にカッコつけているわけではないんです。もともと詩には距離を感じていたのですが、説明動画を撮るようになって、その人にとっての真実にできるだけ言葉で接近しようとした結果、日常会話とは違う言葉が選択され、それが詩になるんだろうと身体的に納得できました。
自分の中に浮かんだものを伝えようとする際に、手持ちの言葉では足りないと感じることはありますか?
常に足りない感覚はあります。でも、その足りなさが人間だという感じもするんですよね。中学生が僕の動画で凄く笑ってくれることもあるように、専門的な言葉はほとんど使っていないんです。でも、それこそ詩ではないですが、その「語彙の足りなさ」「表現できなさ」から何かが生まれる気もしています。だから自分としては、語彙を増やすことよりも、語彙の関節をどう外せるかを考えている感覚があります。
語彙が少ないからといって表現を萎縮するのではなく、まずは自分なりに言葉を発してみることが大事なのかもしれないですね。
それは僕がもともとテキストよりも身体寄りの発想だったという話にもつながるかもしれません。ロッククライミングで落ちそうになったら必死に目の前の岩をつかむのと同じように、言葉を知らなくても言うしかないから言っている。それによって、言うつもりではなかった言葉を口にしてしまうこともよくありますが、その時に自分が分岐していく感覚があるんです。教育的な観点では、思ったことを伝えるために正しく言葉を使うことが良しとされますが、僕個人の心の動きとしては、「なぜこれを言ってしまったんだ」という瞬間にこそ、身体を脱出できたような喜びがあるんです。

独り歩きするSNS上の言葉たち
SNSを見ていると、身体から切り離された言葉が飛び交い、ネガティブな感情が連鎖していくような現象も起きているように感じます。
ギャグとして言ったつもりの言葉が、いつのまにか本当になってしまうようなことをよく目にします。SNS上で強い言葉を投げ合っていても、実際に対面して話をすれば、多分そんな言葉は出てこないと思うんです。仮にそういう言葉が発されたとしても、それが本気なのか、場を盛り上げるための冗談なのかは、表情や声の音量から無意識に汲み取れますよね。
SNS上の強い言葉というのは、それがどれくらい本当に言いたいことなのかがわからないし、統一されたフォントで表示されるとすべて正しい言葉に見えてしまうところがありますよね。言葉を発した本人は冗談のつもりでも、周囲が本来は存在しないはずの感情を慮って心を削ってしまうようなことも起こっている気がします。
良くも悪くも言葉というのは、その余白から想像を膨らませることができるものだということですね。その中で、ジェロニモさんが普段口にしないように意識している言葉はありますか?
根本にあるのは、自分が思っていないことは言えないということです 。就活の面接で痛感したのですが、自分では全くそう思っていないことを無理に口にしようとすると、視界が宇宙船のようにゆっくり回り始めて、「あ、これはダメだ」と(笑)。僕にとって、思っていないことを言うのは、着色料がべったりついたお菓子を食べるような感覚なんです。それを言うたびに、いま自分の健康を害してしまったんじゃないかと。「いつメン」や「エモい」といった巷でよく使われている言葉にも少し抵抗がありますね。流行語に対して自分がどのスタンスでいたいかは常に慎重でありたいし、使うにしてもあえてギャグ的に使うような感覚かもしれません。
流行り言葉は同調圧力的に作用することもあれば、逆にそれが連帯につながったり、説明コストを下げたり、便利さと危うさが表裏一体になっていますよね。
そうですね。最近では「その温度で発して良いんだっけ?」 と思うような言葉が、カジュアルに使われるようになっているのが気になっています。ある言葉が意図しない文脈を同時に伝えてしまうことが起こり得るので、社会的なルールとは別に「この言葉を本当に言いたいのか」という独自の基準を自分の中で制定しているところがあると思います。なんだか当たり前のことを言っているようにも感じますが、自分が思ってもいない言葉を使ってしまうことというのは結構あるんじゃないかという気もします。
その言葉は誰のためのものか
自分の感情を大切にしているからこそ、発する言葉に慎重になっているのだと感じます。一方でお笑い芸人としては、オーディエンスを楽しませるために言葉を使う必要もありますよね。「自分のため」に発する言葉と「他者のため」の言葉、その塩梅についてはどう考えていますか?
お笑いについては、基本的に発する言葉はすべて「お客さんに笑ってもらうため」という前提があります。それが短歌になると、人に読まれることも想定しつつ、「でも厳密に自分はこう思っているんだよな」と、言葉のポジションが少し自分寄りに変わります。さらに説明の動画などは、「自分の背中」に向けているというか、誰に向けても発されていない言葉のように感じます。幸いなことに、「ジェロニモは誰にも伝わらなくても自分が思ったことを言うよね」と認識されるようになってきたこともあり、お笑いの現場でも自分ひとりのためだけに言葉を発することを大事にするようになってきたというのが最近の大きな変化ですね。
ご自身のキャラクターが確立されてきたことで、自分のために発した言葉が周囲からも楽しんでもらえる状況が生まれてきていると。
そうですね。僕が僕のために発する言葉が、結果的にみんなのための言葉になるという面白い逆転現象が起きていて、それが自分としてはうれしいですね。みんなのための自分を用意しなくていい。自分が自分らしくいることが、一番みんなのためになるといういまの状態が、とてもヘルシーだと感じています。
最後に、言葉を使って今後新しく取り組んでみたいことがあれば教えてください。
最近、エッセイなどを書かせていただく機会が増えてきたこともあり、これまで自分の中にはなかった「小説を書く」というモチベーションが芽生えつつあります。色々な小説家のインタビューなどを読んでいると、一様に「なぜそう書いたかは自分でもわからないけれど、書かされてしまった」という話をされているんですよね。「神様が降りてきた」とか、「魔法のような時間が訪れた」とか。自分が水道水の味を説明している時の感覚もまさにこれに近いんです。あらかじめ意図したところに着地するのではなく、書くことでしか到着できない場所にたどり着く。そんな瞬間を、文章を書くプロセスの中でもたくさん見つけていきたいと思っています。

鈴木ジェロニモ
お笑い芸人・歌人・YouTuber・俳優・作詞家・歌手・脚本家
1994年生まれ、栃木県さくら市出身。プロダクション人力舎所属。「R-1グランプリ2023」「ABCお笑いグランプリ2024」準決勝。「第4回笹井宏之賞」「第5回笹井宏之賞」「第65回短歌研究新人賞」最終選考。「第1回粘菌歌会賞」受賞。『文學界』『短歌研究』『ユリイカ』『新潮』『すばる』『群像』『GOAT』『暮しの手帖』『下野新聞』にエッセイ掲載。J-WAVE『GURU GURU!』「鈴木ジェロニモ 半径3mの不明を説明」ナビゲーター。劇団ロロ公演「劇と短歌『飽きてから』」出演。YouTubeでの「説明する」動画が話題となりNHK総合『ドキュメント20min.』「ニッポンを説明する」に出演。書籍に『水道水の味を説明する』(ナナロク社)。2025年4月に楽曲「トマトのジュース」をリリース。ミツカン「冷やし中華のつゆ」Web CMに出演。


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