
「言語化」という言葉がビジネスの現場やSNS上で頻繁に使われるようになり、言葉によって思考を整理し、正解を導き出すことへの期待がかつてないほど高まっています。こうした言語化への過度な期待に警鐘を鳴らすのは、芸人でありながら、YouTubeやポッドキャストでのドラマ・映画評、ラジオ番組でのコメンテーターなど多方面で活躍する大島育宙さんです。
カルチャーから政治までを軽やかに横断し鋭い批評を続けるなかで、誰よりも意識的に言葉が持つ力や責任、そして限界と向き合ってきた大島さんと、一億総発信者時代における言葉との誠実な向き合い方を探ります。
なぜ人は“言語化”したくなるのか
大島さんは、SNSやポッドキャストなどで、昨今強まっている「言語化」の風潮について度々発言されています。改めて、人が言語化をしたくなる背景についての考えを聞かせていただけますか?
よく「地頭が良い」とか「地肩が強い」という言葉が使われますよね。あれは努力をしたくない人が使う言葉で、その人の積み重ねを無化してしまうものだと思います。例えば、何百もの舞台を経て実力を磨いてきたかもしれない芸人に対して、それが努力ではなく「地肩」だと言ってしまうのは、修練による“体験知”を否定することですよね。
言語化というのも、それに近いところがあるんじゃないかと。文章というのは誰でも書こうと思えば書けるから、多くの人が「自分は文章力だけはある」と思い込んでいる節があると感じます。実際にブログを書いたり本を出版しているわけじゃないけれど、ある程度は書けるはずだと高く見積もっている。でもいざとなると、自分の悩みや問題がちっともすっきりしない。そのギャップにもがいてる人が多く、言語化に関心が向けられているんじゃないかと思います。

自分の内面の問題やビジネスにおける課題に対して、言語化することでゴールを明確にしたい、正解が欲しい、安心したいという欲求が強まっているのかもしれません。
ありがたいことに私はよく「言語化がうまい」と言われるのですが、「まだ喋り始めたばかりなのに……」と思うことが結構多いんですよね。しかも「言語化うまいね」と言う人に限って、その先の話を聞いてくれない(笑)。
「そこを言語化したの凄いね」と言われることもありますが、実際には問題の“分解”と“摘出”のことを指しているケースが多いです。それを言語化と呼ぶなら、まだ問題設定がされただけで、そこから価値を判断するプロセスがやっと始まる。本来は言語化した後に問題解決を試みて、また大きな岩にぶち当たったらそれを切り刻んで言語化するという繰り返しが必要なのに、「言語化したらゲームクリア」みたいなゴール設定になってしまっているのは、物事を単純化しすぎた幻想だなと思います。
言語化はあくまでも手段であり、目的ではないと。
そうですね。「今日の遠足は楽しかったです」という言語化ならそれでいいんですけど、大人が生きている社会に終わりはなく地続きですから。「言語化、言語化」と言っている人ほど、言語化自体を目的にしてしまって、その先の問題をあまり解決しようとしていないんじゃないかという気がします。
言語化に別の効果があるとすれば、それはヒーリング、つまり癒やしですよね。課題解決よりもスッキリ感が得られることが大事、という。それは玄関にゴミを貯めて「掃除が終わった」と言っているようなもので、ゴミを捨てるところまでちゃんとやってよという話ですよね。言語化することで思考停止してしまう人が多いなと思います……「言語化」自体を持ち上げるブームは危うい。
逆に、言語化できない部分と向き合い続ける姿勢こそが大切なのかもしれません。
それも常日頃思っていることですね。そのために私は政治も映画も見ていますし、どちらにも言語化し切れない部分が絶対にある。政治においては、言語化されないまま誤魔化されている部分が一番の問題だし、映画にしたって言語化できなかった部分にこそ魅力がある。全部言い表せてしまうようなものは、自分にとって凄く好きな作品になりにくいし、意外と残っていかないとも感じます。
ただ、もやもやを一人で抱えていると「これは楽しくなかったということかな……」と勘違いしてしまったりもする。だから、友達と一緒に喋ります。政治なら「ここが誤魔化されているよね」と確認し合ったり、映画なら言葉にできないもやもやを共有する。そうして話した体験の記憶が残ったり、その人と話したことが思い出になっていくのが楽しいです。

弱肉強食のゲームに勝った言葉たち
インターネット上には、もやもやを解消してくれるような強い言葉、わかりやすい言葉があふれているように感じます。
SNSとショート動画には勝ち負けの言葉しかない、というのがこの10年で感じてきたことですね。SNSは限られた文字数の中で言い切らないといけない仕組みだから、言葉の速度ばかりが競われて、どちらが勝ったか負けたかみたいな話になりがちですよね。
動画やニュース記事のコメント欄でも、何文字以上だと読まれにくいとか、長文で書いてあるとそれだけで「たしかにそうかも」といいねが押されたりと、テクニカルなバトルの場のようなものが巨大プラットフォームによってつくられている。そこで追い立てられるように言葉が発信され続ける中で、言葉の中身がどんどん薄くなっているように感じます。
個人がブログやポッドキャスト、ZINEなど大きなメディアを通さずに発信できるようになり、言葉が民主化されたことは大きな進歩だと思う一方で、届けること自体に熱狂して、言葉の中身を精査しない人が結果的に勝っている現状もありますよね。
そうした言葉が精査されない時代に、受け取る側にはどんな意識が必要になるのでしょうか?
私は、自分が受け取る言葉・受け取らない言葉を、かなり意識的にキュレーションしています。そうしないと、勝ち負けのゲームに勝った言葉に目や耳を通しているだけで一生が終わってしまいかねない時代だと思うので。
いまのように市民の言葉が大衆に届く時代ではなかった頃に発せられていたプロパガンダを見て暮らしていた時代と、果たしてどちらが豊かなのかと考えると、あまり変わらないんじゃないかとも思ってしまいます。弱肉強食のゲームに勝った言葉だけを見せられたまま人生を終えたくはないし、一人でも多くの人にそうじゃない方が良いと伝えたい。要はSNSはあまり見るな、という話ですね(笑)。
私自身は、自分の発言が本来の文脈を超えて広がったり、事実と異なる形で拡散された時に訂正できるようにSNSをやっているところがあって、その必要がなければ使っていないです。

牧歌的だったインターネット黎明期からすると隔世の感がありますね。
よく「インターネット初期はユートピアだった」という話が語られますが、私はインターネットが良かった時代なんてないと思っています(笑)。そもそも最初に伸びたのも 、今インプレッションを集めるのもポルノと暴力だと思うし、初期の匿名掲示板なども無法地帯で、そんな場所が正常な言論空間たり得たことはなかったんじゃないかと。
私はラジオや新聞、雑誌といったいわゆるオールドメディアが好きなのですが、それらには露悪的なカルチャーが広がっていた時代があるにしても、それぞれの矜持みたいなものがあって、道を外れれば責任を取らされ、廃刊にまで追い込まれることがあった。そういう責任と紐づいた発信を信用してきたし、編集やディレクションによって選ばれた言葉、つまり団体戦によって生まれる言葉の方が、個人から発せられる言葉よりも信頼できると考えています。もちろん、ポッドキャストなどで権力を介さずに発信されるものにもひとつの真実があるし、あらゆる立場の人がつくるものが共存しているのは良いことだとは思っていますが。
言葉が持つ責任と書き換え可能性
誰もがSNSなどを通じて自由に発言できる時代になったことで、無責任な言葉が拡散していくことも増えています。
すべての言葉がそうですが、「昨日はこう言っていたのに、翌日には全然違うことを話している」ということはよくありますよね。例えば私の場合、ドラマのレビューなどを動画で発信すると数万人がYouTubeで視聴してくれるので、ストーリーを誤って伝えたり、本来重要ではない部分を中心に語ってしまったら、その作品を少なからず毀損することになる。だから責任をもって確認するし、間違えたら削除や訂正をするように努めてはいます。
自分の言葉が変な形でひっくり返されることへの恐怖心は人一倍持っていると思うし、常に自分の言葉の手綱を握って、自分で編集できる状態でいたいという感覚がある。そうした意識がもう少し世の中全体でも高まっていくといいなと思います。

SNSには炎上のリスクもありますし、言葉が文脈から切り離され、発信者の意図とは異なる受け取られ方をすることも少なくありません。その中で、「下手なことは言えない」と萎縮してしまったり、一度誤った発言をしたら取り返しがつかないと考えている人も多いような気がします。
人前に出る人の中でも「書き換えていい」と思っていない人が多いし、失言を叩く側も、一回言ったらその人はもうおしまいだという感覚でいると思います。でも私は、失言をした後の言動こそがその人を表すものだと考えています。
ある有名な芸人さんが失言して炎上した後に、何百万人ものフォロワーがいるアカウントで自分の非を認めていたことがありました。個人の感情の発露のマナーだけじゃなく、社会の認識に関わる話だったので、その人と同じように気づけた人も多かったケースでした。それを見て、失言そのものの有害性を、その後の言動による「誠実さ」が超えることもあるんだなと感じました。そういう書き換えも面白いから、人の言葉を見たり読んだりするのがやめられません。
特定の人の言葉を追いかけたり、掘り起こしたりすることへの関心が強いのですか?
私は自分が物心のついていなかった頃の古い雑誌を読むのが凄く好きなんですが、それはアーティストや作家などが話した言葉がたくさん残っているからです。「当時はこんな喋り方をしていたんだ」とか、「いまは全くこの話をしていないのに、この時期はこのことばかり話していたんだな」とわかることが面白い。そういう記録のためにも雑誌には残ってほしいのですが、出版不況が進む中でそれも難しくなっていますよね。
一方でSNSなどのプラットフォームやオンラインのメディアは、アカウントが急に消えたり、サイトが閉鎖してアーカイブが見られなくなったりしますよね。無責任な発言でも趣味の発言でも、発行部数が少なくたっていいから残してほしいです。そうしたら私が国会図書館に掘りに行くので(笑)。
オンライン上で言葉が書き換え可能になった時代だからこそ、言葉の記録やアーカイブについて考えることがより大切になっているのかもしれません。
明確な嘘や、誰かを傷つけようとする悪意のある言葉は、証拠としてアーカイブされるべきだと思っています。とんでもないことを言ったまま訂正もせずにメディアに出続けている人もいますが、過去の差別発言を訂正していない人の発言だということを、私は忘れません。
「いっぱい喋るから面白い人だよね」という風潮が強い世の中だからこそ、訂正されていないことに関しては、知っている者の義務として記録していきたいという意識があります。言葉を大量に操れる人間がこれからも世の中を支配していくと思うし、これまで以上に誤魔化す手段も増えていくと思うのですが、こちらにも言葉があるからこそ誤魔化せないぞ、と。そこに言葉の面白さがあり、ある意味でそれは戦いでもあると思っています。

自分の語彙を物色し、言葉を新陳代謝させる
言語化への欲求、言葉に対して不寛容なネット空間、台頭する生成AIの影響などによって、言葉がわかりやすいもの・当たり障りのないものに集約し、多様性が失われてしまうのではないかという気もしています。
たしかにそれは感じますね。ひとつ思うのは、人は言葉を純粋にその内容だけで受け取っていることは実は少ないんじゃないか、ということです。私たちは「人の顔」と「名前」が好きすぎるということにもっと気づいた方が良いというのが、近年の私の切迫した問題意識です。
有名人に限らず、「同じ職場の誰々さんが言っていた」というだけでファクトチェックもせずに政治思想がコロッと変わってしまうこともある。言葉を受け取る側が、人の顔と名前から言葉を切り離す作業に慣れていかないと、著名人の強い言葉や、明るく楽しい人が言った当たり障りのない言葉だけが残っていく。とはいえ、言葉が顔や名前から完全に切り離されることはないとも思うので、発信する側には、顔か名前どちらかを出しつつ、言葉そのものの力でプレゼンスを高め、エンタメとも行き来しながら広く届けられる人間がもっと増えていくといいなと思っています。
大島さんご自身が、言葉を発信する時に意識していることを教えてください。
社会や政治について話す際、「これは正さないとまずいんじゃないか」と思うことがあったら、それを新しい切り口で言うことを心がけています。また、すでに蔓延している言葉に違和感を感じたら、言い換えるということもしていますね。
最近、マイノリティへの差別的な言動が選挙やフォロワー・再生数稼ぎのひとつのテクニックになってしまっていますが、その時に使われる「差別に反対する」という言葉に違和感がありました。明確な差別に対して議論しようとする時に「反対」という言葉を使ってしまうと、差別に「賛成」する立場も想定しているように聞こえてしまいかねない。だから、「反対」ではなく「論外」という言葉を使った方がいいんじゃないかと発言したら、かなり反響がありました。「論外な差別」というものがあるんだと気づいた人たちが反応してくれたんですね。言いたいことはわかるけどちゃんと得点を決められていないような言葉に、代わりの語彙を持ち出すのが楽しくてやっているところもあります。批評とは基本的にそういうものだと思いますし、もともと癖でやってきたことが仕事になってきた感じがしています。
「反対」を「論外」に言い換えることは、特段語彙が豊富でなくてもできますよね。一方で、語彙が豊富だからこそ伝えられることもあると思います。
もちろん語彙は豊富な方がいいとは思います。ただ、子どもや日本語を学び始めたばかりの人が、凄く詩的でクリティカルな表現をすることにハッとさせられることもありますよね。私が良くないなと思っているのは、語彙が硬直化してしまうことです。何かを語る言葉を増やそうとせず、何年も同じ道具を使っていると、「その包丁、もう錆びちゃってるよ」ということが起こる。自分が使いがちな言葉や口癖などをメタに認識した上で、語彙を調理道具のコレクションのように物色したり、出し入れしながら使ってみることを楽しむのが大事な気がします。
これは言語化の話にも通じますが、単に語彙を増やすことをゴールにするのではなく、語彙の新陳代謝をアクティブに続けている人が、本当の意味で語彙力がある人だと思います。
語彙が固定化されてしまうと、物事に対する視点や思考も画一的になってしまうかもしれません。
たしかにそうですね。こないだ「なにげに」という言葉を凄く使う人がいたのですが、それが面白かったので自分も1ヶ月くらいわざと頻繁に使ってみました(笑)。好きなラジオパーソナリティの口癖を半分意識的に真似したりもしているのですが、誰からも指摘されたことはなくて、そういうのが楽しいです。一見意味がなさそうな言葉だけど自分にとっては意味があるというか、それを使うことで自分の垢が落ちていく感覚が気持ち良いこともあります。
大島育宙(おおしま・やすおき)
1992年生まれ、東京都出身。東京大学法学部卒業。2017年、お笑いコンビ「XXCLUB」としてデビュー。タイタン所属。TBSラジオ『こねくと』では毎週火曜の「空閑時評」にレギュラー出演、フジテレビ『週刊フジテレビ批評』ドラマ辛口放談にコメンテーター、Eテレ『太田光のつぶやき英語』に英語インタビュアーとしてレギュラー出演。『サンデー・ジャポン』MX『5時に夢中!』『バラいろダンディ』にコメンテーターとして不定期出演。ポッドキャスト「無限まやかし」「炎上喫煙所」「ペーパードライブ」の他、『Quick Japan』『ROCKINONJAPAN』などでの連載も執筆中。YouTubeでは映画やドラマの時評を配信、登録者は16万人(2026年3月時点)。


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「言葉」と「物語」
私たちの社会において、「言葉」は意思を伝える最も重要なツールであることは疑いようがない。しかし、「見る」「聞く(聴く)」「話す」「書く」などの要素が複雑に絡み合うことによって、「言葉」という語義以上のグラデーションや広がりがあるのかもしれない。伝え方や届け方、言葉をめぐる現象や事象、響きや造形、そこから立ち上がる「物語」のあわいをさまざまな角度から探索する。