
言葉だけで綴られる小説の世界では、物語をパッケージするデザイナーの解釈ひとつで作品の届き方・受け取られ方は大きく変わります。年間数百冊もの装丁を手がけ、膨大な言葉の海と、一つひとつの物語に真摯に向き合い続けてきた装丁家の川名潤さん。作家が描写しなかった風景や、登場人物が発する言葉の背景に想像を膨らませ、一冊の本の佇まいを形づくる営みを、川名さんは「二次創作」と呼びます。
作家が綴った物語を読者に届ける媒介者にとどまらず、一人の読者として時に批評的に介入しながら、その本があるべき「態度」を模索する。言葉とビジュアルの間にあえてズレをつくり、読者を物語へと誘い込むための違和感を設計する、そのスリリングな装丁の営みに迫ります。
物語の“二次創作”としての装丁
川名さんは、年間に数百冊もの本のデザインを手がけられていると伺いましたが、これだけの仕事量になると、本の中身を読むこと自体も大変だと思います。装丁を手掛けるデザイナーには、本の内容を吟味する方と、編集者に概要だけを確認する方、それぞれいると思いますが、川名さんは本に書かれた「言葉」とどのように向き合って仕事をされているのでしょうか?
僕自身、本好きということもあり、基本的には書かれている言葉に重きを置いていて、自分では「デザインをしている」という自覚を持たずに仕事をしているところがあります。最近は小説の仕事が多いので、言葉というよりは「物語」ということになるかもしれませんが、その物語を読み込んだ上で、物語の中に存在しつつも著者が書かずにいた風景を見つけ出すことに注力しています。
例えば、一人称視点の物語であっても、主人公に見えている風景のすべてが記述されているわけではありません。登場人物の行動や言葉の背景にある、叙述されていない部分を勝手に見つけ出して、「この場面にはこれがあったはずだ」「この人物にはこれが見えているかもしれない」というものをデザインに忍ばせるようにしています 。

書かれている言葉や物語を「補完」するような意識でデザインをされていると。
「補完」はおこがましい言い方かもしれません(笑)。「補足」くらいかな……。書名や帯など、表紙に並んでいる言葉と、意味合いを少しだけズラしたものを形にしたいと考えています。簡単に言えば、「二次創作」のような感覚です。ちょっとだけ角度を変えた視点を盛り込むというか。
アメリカの有名なブックデザイナー、チップ・キッド(Chip Kidd)が学生時代にグラフィックデザインの先生から教わったという有名な話があります。「『リンゴ』というタイトルに、リンゴのビジュアルを当てはめてはいけない。なぜなら、見る人を間抜け扱いするからだ」と 。
言葉とビジュアルが完全に一致してしまうと、読者の想像力がそこで止まってしまうということですね。
はい。物語をそのまま見せてしまうと、読者が書店でその本を見た時に、タイトルと絵だけで完結してしまい、手に取ってもらえない可能性があります。むしろ、言葉とビジュアルのズレによって物語の入り口をつくることができる。装幀家の菊池信義さんも、装丁と読者が出会った時に「違和感」を抱かせることで、その本に参加してもらうようなインタラクティブな関係をつくらないといけない、と生前に仰っていました。通常のパッケージデザインでは、中に入っている製品と一致した言葉やビジュアルを用いることが求められます。でも、おもに物語を扱う装丁というのは、極端な話、リンゴのことが書かれた本の表紙を青にしても成立する場合があるという仕事なんです。
同じ物語でも、映像や音楽、役者などさまざまな要素で構成される映画などと比べて、小説というのは言葉だけで構成されているものだからこそ、解釈の余地が大きい。そう考えると、デザイナーの解釈ひとつで、作品の届き方は大きく変わりそうですね。
そうですね。装丁の仕事というのは、受け取る側の選択肢を狭めてしまう仕事でもあるんです。だからこそ、何かしらの方向付けをしてしまう手前で終わらせることもありますが、時には僕自身の個人的な解釈を入れることもあります。もちろん、出版社側のビジネス的な意向も汲み取っていく必要がありますが、小説の場合は僕一人の解釈に委ねてもらえることも多く、ゲラだけ送ってもらって、「後はお任せします」ということもある。つまり、僕のリアクションが試されるわけですが、そういう時は、「この本がこう読まれたらいい」という視点でデザインをするようにしています。


物語に介入し、本の“態度”を表明する
──「この本がこう読まれたらいい」というのは、読者に対してある種のガイドを提示していくようなイメージでしょうか?
例えば、作品を読んでみて、「この要素の描写が少し足りないのではないか」と感じた時に装丁でそれを補足したり、あるいは作家がある社会的な問題を世に問うような物語に対して、僕自身がその是非について思うところがあれば、その意見を表明するようなデザインをすることもあります。それは場合によっては、物語の邪魔になることもあるかもしれません。でも、自分自身が本好きとして書店によく通う人間だということもあって、たとえそれがエゴだったとしても、その本の「態度」というものが少し垣間見えるくらいの手がかりをこっそり入れることがありますね。
作家が書いた物語にデザイナーとして介入していくようなスタンスが面白いですね。ただ、一読者として感じたことを反映させたデザインが、作家が物語や言葉に込めた意図とズレてしまう可能性もあるように思います。
そうですね。自分がしていることは越権行為だという自覚を持ちながらデザインしているところはあります。正直言うと、なるべくその越権がバレないようにと願いながら、態度表明をしているような感じですね(笑)。寸止めになるようには心がけていますが。デザインに込めた意図や個人的な考えを、直接やり取りしている編集者以外に表立って話すことはありませんが、読者の中の誰か一人でもいいから、読了後にでもその意図に気づいてくれたら嬉しいなと期待しながらデザインしています。

デザイナーにはつくり手と受け手をつなぐ翻訳者のような役割があると思いますが、川名さんのお仕事は「翻訳者」であるだけではなく、「批評家」的な側面も持っているように感じます。
「この物語が世に出る時は、できればこういう服を着ていてほしい」というのがあるんです。それは「お葬式には黒を着てください」といった社会的なTPOとは別に、もう一つ別の意味を持たせたいという感覚です。本は何年も残るものですが、同時に出版された時代の社会を映し出すメディアでもある。だから、その時にこの本の制作に関わった人たちが何を考えていたのかということを、何かしら形として残しておきたいんです。もちろん主役は作者本人ですが、原稿を読んで何かしら感じることがあった時に、その人が着ているスーツの裏地にこっそり何かを仕込んだり、裾を少しだけ短く詰めておくといった介入をするというか、完全にスルーして世に出したくないという気持ちがあります。
そうした介入をする時は、あくまでも受け取ったテキスト(ゲラ)から何かを感じた場合なのでしょうか? それとも、著者本人に直接意図を聞くようなこともあるのですか?
それは場合によりますね。小説の場合は、作家さんが打ち合わせの場に来ることは滅多にないので、書かれた物語がすべてになることも多いですが、漫画の場合は、漫画家さんが自らカバーを描くことも多く、打ち合わせにも大抵いらっしゃいます。そういう時は、「このコマにはどういう意味があるのか」といった内容に踏み込んだ話から、好きな音楽や色、食べ物まで、色々お話を伺います。

言葉の届け方を左右する文字
言葉をどのような形で届けるのかという観点で、「文字」をどう扱うかは非常に重要だと思います。プロのデザイナーの視点から、言葉と文字の形、あるいは文字組みの関係についてどのようにお考えですか?
僕が大切にしているのは、おもにリズムのコントロールです。よく「読みやすさ」という言葉が使われますが、それは言い換えれば「どれだけ多くの人が読み慣れている形にするか」ということだと思っています。例えば、金属活字というのは100年余りをかけて多くの人が見慣れている共通認識、いわばコードのようなものを培ってきていて、そこにどれだけ則るかということが肝です。
デザインは自由なものだと思われがちですが、装丁の仕事は実はそういうわけでもなくて、小説なら、13級から14級程度の文字サイズで、1ページにつき「縦40字程度 × 横15、16行程度」といった見慣れた形があります。こうした「コード」を踏まえた上で、行間を空けてページをめくる速度を上げたり、逆に文字を詰めて物語への没入感を高めたりと、読み手の体験をコントロールしていくのが僕らの仕事です。
鈴木ジェロニモさんに取材した際、均一化されたフォントが並ぶSNS空間では、言葉が身体から離れて鋭利になり、悪い言葉が積み重なりやすくなっているのではないかというお話がありました。書体が読み手に与える影響についてはどうお考えですか?
僕の場合、書体や文字組みは調味料による味付けのようなものだと捉えています。例えば、誰もが見慣れた書体を使いつつ、ひらがなの形だけをほんの少し変えることで、あえて物語にすんなり没入できない違和感をつくることがあります。変わった書体を使えば味の濃い料理になるし、トリッキーな文字の組み方をすれば、全く別の料理になる可能性すらある。著者の多くは、文章を書き終えた時点で仕事が終わると考えているので、僕らデザイナーや編集者は、その原稿をどう届けたいかを考え、一皿の料理として味付けをします。そこにはどうしてもそれぞれの「態度」が入り込むと感じています。その中で僕個人としては、若い時よりも「いまこの作品を世に出すこと」への自覚や責任感が強くなっていることを感じます。
そうした変化は、どこからきているのでしょうか?
これはもう単純に自分の中に余裕が出てきたことが大きいのだと思います。以前は自分の仕事だけで精一杯でしたが、次第にただ仕事をこなし続けることに疑問を抱くようになりました。現在、日本では年間で約7万冊の本が出版され、膨大な数の物語が世に送り出されています。だからこそ、一つひとつの物語ときちんと向き合って届ける責任があるんじゃないかと。そういう意味では、この物語には加担したくないと思えば、仕事をお断りすることもあります。逆に引き受けたからには、装丁だけでなく、本文の組み方や販促物などに至るまで味付けを施すこともあります。
──ちなみに、小説と雑誌では、文字やデザインに対する考え方は変わるのでしょうか?
いま雑誌は『群像』(講談社)しか手がけていませんが、以前はビジュアル誌も手がけていました。雑誌は、ページ内のコントロールにやりがいがあって面白いメディアです。人は必ずしも一番大きな文字から読むとは限らなくて、視線を誘導する仕掛けを意図的につくることができます。例えば、右開きの雑誌なら、まず右上の小さな文字を読み、そこから何らかの写真を介して、左下の大きな文字へと視線を移動させ、再び右上に戻ってもらうといった設計ができる。これは、上から下へと画面をスクロールするだけのWebメディアにはできない面白さだと思います。
一方、小説は言葉のトーンや熱量をタイポグラフィによって表現できる豊かさがありますよね。
そうですね。それを毎日繰り返している感覚です。さらに本や雑誌は、立体になった時に初めてコントロールできる部分もあります。以前、金原ひとみさんの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(ホーム社)の装丁を手がけた際は、帯の最後に書かれていたパンチのある言葉を、真っ先に目に入る位置にレイアウトしました。時間軸をコントロールするような設計ができるのも、この仕事の面白さだと思います。

言葉を届けるデザインに“美しさ”は必要か?
本のデザインをするにあたって、川名さんは「美しさ」というものをどの程度意識されていますか?
「デザイン」という概念が海外から日本に輸入された際、「造形的な美しさ」として認識され、そのまま今日まで来ているところがあると思っています。そのため、形や色彩に執着するデザイナーも日本には少なくない。でも、「物語そのものを楽しんでもらいたい」「この話はこんなに面白いんだ」「この面白さがこのように伝わってほしい」ということを形にしようとする時、造形的な美しさが邪魔をすることもある。場合によっては、あえて汚く届けることがその物語にとって最良の方法になり得ます。だから、造形的な美しさは二の次に考えていますね。
「美しい装丁」「美しい本」という言葉もよく耳にします。
例えば、布張りのクロス装にきれいな箔押しがしてあると、人は「美しい装丁」と思うかもしれませんが、実際に読んでみると、それが本当にあるべき形なのか疑わしいものもあります。「何が似合うか」が重要で、十二単が似合う人もいれば、端切れを繋ぎ合わせたような服が似合う人だっている。そこに必然性が伴えば、それが一番良い形になるんです。本が出るというのは一種のイベントであり、そのイベントとして面白いかどうか。それに「美しい」という言葉が当てはまる時もあれば、そうでない時もあると考えています。
「似合う装丁ができた」という確信は、ご自身の手応えだけで得られるのですか? それとも社会の反応があって初めて実感できるものなのでしょうか?
一旦は僕の中だけで完結します。世に出た後の反応は、正直わからないんですよね……。装丁だけで買ってくれる人、いわゆる「ジャケ買い」をする人は500人もいないと思っているのですが、読み終わって本を閉じた時に、納得してもらえるものにしたい。
本を出し、売り、買い、読み、棚に収めるという一連のイベントを、できるだけ密度の高いものにしたいですし、楽しいものにしたいという思いがあります。本を手に取る人には物語を全力で楽しんでもらい、その後もがっかりさせたくないんです。そのために多くの仕掛けを用意している感覚があって、そのスタート地点には必ずしも「美しさ」があるわけではない。「なぜ川名さんのデザインには、たまに露悪的なものがあるのか」と聞かれることがあるのですが、やっぱりそれが必要だと思っているからなんですよね。

川名潤(かわな・じゅん)
装丁家
1976年千葉県生まれ。INFOBAHN、prigraphics inc.を経て、2017年に川名潤装丁事務所を設立。多数の書籍装丁やエディトリアルデザインを手がける。最近の装丁に町田康『朝鮮漂流』、金原ひとみ『踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君』、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー〔新版〕』など。『BOOKS 大久保明子×川名 潤』展を3月5日(木)~4月10日(金)まで竹尾見本帖 本店にて開催中。


(特集)
「言葉」と「物語」
私たちの社会において、「言葉」は意思を伝える最も重要なツールであることは疑いようがない。しかし、「見る」「聞く(聴く)」「話す」「書く」などの要素が複雑に絡み合うことによって、「言葉」という語義以上のグラデーションや広がりがあるのかもしれない。伝え方や届け方、言葉をめぐる現象や事象、響きや造形、そこから立ち上がる「物語」のあわいをさまざまな角度から探索する。