
中学生の頃から楽曲制作に励み、インターネットを主戦場に制作・発表・流通までを一人で完結させる、DIY精神に根ざした音楽活動をスタートさせたtofubeatsさん。メジャーレーベルに活動の軸を移した後も、一貫してインディペンデントな姿勢を貫いてきました。フリーダウンロードで創作物を共有することから始まり、ミュージシャンとの共作・共演を重ね、メジャーデビュー後は私的な表現がポピュラリティを獲得するポップミュージックの醍醐味や予期せぬフィードバックも経験してきました。
変わり続ける時代に対して常に批評性を持って活動してきたtofubeatsさんは、“自己”と“他者”のあわいに蓄積された思考や感情を、いかに表現へと昇華してきたのでしょうか。
インターネットに見たDIY精神
tofubeatsさんは、ご自身の楽曲をインターネットに公開するところからキャリアをスタートされています。インターネットを介して自分のつくったものが他者に共有され、ポピュラリティを得ていく過程で、自己と他者の関係やその「あわい」をどう捉えてきたのか、その変遷を伺えればと思っています。
音楽を始めたきっかけは、他者に聴かせたい、見せたいというよりも、まずは自分でやってみたいという気持ちでした。最初に親に買ってもらったベースはすぐにやめてしまったのですが、その時から音楽に能動的に関わりたいという気持ちが芽生えました。そこから新しい音楽や好きなものを摂取したくなって色々調べていくうちに、「自分でも音楽がつくれる」という事実にぶつかったんです。
もともとアマチュアがつくったものを見るのが好きで、自主制作の映像などを動画サイトでよく見ていて、そこに自分も混じりたいというのが最初のモチベーションでした。音楽をつくってネットでシェアする人たちのサークルに入りたい、共通の目的を持って集まっている人たちと仲良くなりたいという気持ちが始まりだったと思います。

アマチュアがつくったものに、どんな魅力を感じていたのですか?
音楽を始めた頃、ゼロから何かに取り組んでいる人たちの姿がインターネットで可視化されていることが、自分にとって大きな励みになったんですよね。学校では自分より勉強ができる人ばかりが目につきますが、インターネットには何かを始めたばかりの人たちがたくさんいて、その足跡が残っている。伸び率には差があっても、「自分もこうやってできるかもしれない」という気持ちにさせてもらえました。
例えば、イチローの活躍を見ても「自分には無理やな」と思うだけですが、アマチュアの創作物が見られるインターネットは、「自分がやったらどうなるか」というイメージの源泉になったんです。そこには夢があるし、ジャンルに限らず、人は習得しようと思ったものを習得できるという実感を与えてくれる場でしたね。
ご自身の作品にも、そうしたDIY精神を意識して残している部分はありますか?
ありますね。自分ひとりでできる範囲を超えるとおかしなことになる、という感覚が自分の中にあるんです。例えば、スタジアムでライブをする人は、他の多くの人の力が働いているのに、観客からはステージ中央のひとりに力が集約されているように見える。
何かができるようになる喜びとは対照的に、人に頼んでできることが当たり前になってしまうのは、あまり良いことではないと感じています。自分で会社(HIHATT)をやっているのもその感覚とつながっていて。どこかの会社に所属していると、自分以外が決めたことをやらなくてはいけない場面がある。もちろん、いまもそういうことが全くないわけではないですが、自分が納得できる形で意思決定できることが大事なんです。

自己と他者の間にあるスライダー
作品づくりでは、共作や楽曲提供、CDのアートワークなど、他者と関わる場面も多いと思います。
そうですね。誰かに頼む時は、全部任せ切ると決めています。例えば、いつもイラストをお願いしている山根(慶丈)さんにはほとんど指示は出さず、基本的にはアートディレクターに委ねています。自分が決めるのは、最終的にどれにするかという判断くらい。もともと一人で完結する形で音楽を始めたので、人に頼むと自分がつくったという感覚が薄れるんですよ。
ヴィジュアル制作はご自身の専門外の領域なので任せやすい気がしますが、「歌」に関しては、ご自身で歌うことと他者に歌ってもらうことにどんな違いを感じていますか?
僕はいまも自分で歌うのが好きじゃないし、ずっと違和感があるんです。ただ、それ以上に自分が書いた言葉を人に歌ってもらうことの方が違和感が強くて。誰かに歌ってもらうこと自体は音楽の世界では珍しくないですが、よく考えると結構変な話ですよね(笑)。もちろん、売れる曲をつくりたいなら色んな人と組んだ方がいいし、K-POPなんかは1曲に複数の作家が入るような体制でつくられていたりする。
でも、自分が書いた曲を他の人が歌うと、その人の言葉として受け取られてしまい、必ずズレが生まれるんです。だからこそ、自分で歌うと判断する曲も多いし、自分と他者の間にスライダーがあって、その位置をどう設定するかを考え続けています。基本的には、自分寄りに置いておく方が気持ち良いし、違和感も少ないんですよね。
スライダーというのは面白い表現ですね。
僕は地方出身(神戸)で、インターネットの世界でもアマチュアに揉まれてきたので、憧れてきた人たちが必ずしもみんな音楽でご飯を食べているわけではないんですよね。大きな影響を与えてくれた人が売れているとは限らないという状況を見ていると、スライダーというものを意識せざるを得ないんです。とはいえ、自分はそのスライダーを振り切れないタイプで、その中でギリギリ上手に立ち回ってきた。
だからこそ、自分の方に振り切っている人に憧れるし、数の原理やメディアの力など、個人の周りにモヤモヤある幻想のようなものに触れるたびに、自分は自分のやるべきことをしっかりやろう、人の気を引くためによくわからないことを言わないようにしようと思わせてもらえるんですよね。
スライダーを振り切らない、あるいはバランスを取っているのは、なぜでしょうか?
ハードで高貴な表現への憧れはありますが、そればかりがやりたいわけではないし、J-POPから入って中古の100円CDを集めていた身としては、「誰が言っているんだ」という感覚もあります。所詮自分は傍流だという自意識が若い頃に育ってしまっていて、その出自がちょうどいい具合に自分を中和してくれているんです。
もうひとつは、経済学部出身ということもあって、お金に抵抗がないんです。商売やビジネスを汚いものだと思わず、むしろ面白いと感じてきた。会社の経営や契約の勉強をすることにも他のアーティストより抵抗がないし、自分がつくっているものに関わることなので全然苦じゃないんですよ。

一人ひとりに生まれる“矢印”が面白い
ものづくりには、自己と向き合う内省、他者からのフィードバック、あるいは時代や社会へのスタンスなどさまざまな要素が影響すると思います。その中でtofubeatsさんは、ものをつくって世に出すということにどのように向き合ってきたのでしょうか?
基本的には走りながら考えるという感じですね。日々色々考えてはいるけれど、作品をつくる時にはテーマや指針がないと形にならない。アルバムにしても、ただ10曲集めただけでは別にそれは何でもないものじゃないですか。誰にでも無意識に考えていることがあり、作品をつくる時はそれを掘り起こせばいいというスタンスです。日頃から抱いている違和感や経験した出来事を、本を読んだりゆっくり考えたりしながら洗い出していくんです。だから、最近つくった自分の作品を聴き直して、「自分はいまこういうモードなんやな」と逆に気づかされることもあります。
コンセプチャルなアルバムだけでなく、2022年に出版された『tofubeatsの難聴日記』(ぴあ)など、tofubeatsさんのリリースにはその時々の記録という意味合いが強いように感じます。ご自身の記録したものが、他者に享受され評価されることについてはどう捉えていますか?
人の日記を読むのが好きなのですが、自分にとっては価値のないものが、他者からすると宝になることがあると思うんですよね。僕は変にサービス精神が入ったものより、あるがままのドキュメンタリーに惹かれるので、自分が日記を書く時も、できるだけ自分寄りのスライダーにして淡白に書くようにしています。
日記というのは、友人アーティストのin the blue shirtくんの発言なのですが、日常の些細なことに何を感じるのかというところに、その人なりの“矢印”が生まれると思うんです。例えば、いま目の前にコンビニで買ったカフェラテがありますが、これを見てコンビニのロジスティクスを考える人もいれば、カフェラテの色に思いを馳せる人もいる。文章でも音楽でも、その矢印を極力残しておくことが面白いと思うんです。だから僕は、マスに向けたスタジアムポップよりも、「この人はこれをやりたかったんやろうな」というものが伝わる作品が好きだし、それが時として大きな力を持つのも音楽の面白いところですよね。
前作『REFLECTION』は、鏡に映る自分がモチーフになっていましたが、他者に映る自己像についてはどのように考えていますか?
『REFLECTION』の大きなテーマは、「他者からは自分のことはわからない」という感覚だったんですよね。日記にも書きましたが、難聴になった後、ホテルで鏡に映った自分を見ても、耳が聴こえない人には見えなかったんです。その時に、人は目の前の相手の背後にある問題までは想像しないんだなと感じたんです。音楽をつくるには自分の五感を信じるしかないけれど、その最初の情報に疑いが生じたことは自分にとって大きな出来事でした。
作品をつくった時の状況や雰囲気が100%伝わるとは思っていませんが、受け手がそこに何かを感じ、“矢印”が生まれるのが面白い。『REFLECTION』で扱ったのもその点で、これは自分にとってずっと変わらないテーマだと思います。

リアクションをどう受け止めるのか
つくり手の意図を超えて作品が受け取られる状況は、ポップミュージックのあり方そのものとも言えそうです。
まさにそれがポップミュージックの醍醐味なんですが、最初は受け入れられませんでした(笑)。曲がヒットすると、思いもよらない使われ方をすることがあって、僕の曲もデモの旗印のように使われたことがありました。自分もリスナーとして、つくり手が意図していないところで感動していたりすると思うし、その「誤読」を良しとするのがポップスなんですよね。メジャーデビューして世間からのさまざまな反応を受け、やっとそれを楽しめるようになりました。
受け取り方にはグラデーションがあり、つくり手の個人的な出来事が広く共有される中で必ずズレが生まれます。その誤読に面白さがある一方で、他者を完全に理解すること、共感することの難しさも感じます。
YouTubeには作品の解説動画がたくさんありますが、導入としての良い部分がある一方で、少し謙虚さが足りないと感じることもあります。作品のある側面が自分と同じだと感じることは良いと思うのですが、「これは私のことを歌っている」と受け取るのはやや倒錯的に思える。失礼な物言いかもしれませんが、「作家はこう思っている」と訳知り顔に解説するのは欺瞞なんじゃないかと。
大前提として、こうだと言い切れないから音楽にしているんですよね。「AはBである」ではなく、「Bかもしれないし、Cかもしれない」と感じているから表現をしている。もちろん、「これは自分のための作品だ」と反射的に感じることは自分にもありますが、同時に「ホンマにそうなのか?」と疑ってしまうんです。
作品を世に出し、他者からのフィードバックを受けることで、自分でもわかっていなかったことが見えてくることもある気がします。
あります、あります。むしろそれが作品をリリースする快感のひとつで、僕はフィードバックが凄く欲しい人間なんです(笑)。次の作品制作だけでなく、生きていく上でも大切なリアクションになりますから。ただ最近はメディアが減り、音楽の世界でも批評がほとんどなくなってしまった。YouTubeの解説動画以外に作品のレビューが全然されないですし、自分が好きなものを長文で語る文化が廃れつつあるのは、とても寂しいですね。
長文が読まれなくなり、音楽でも曲がどんどん短くなっています。情報環境やリスナーの志向の変化が背景にあると思いますが、こうした時代のニーズにどこまで適応すべきだと考えていますか?
これは本当に難しいですが、ひとつ言えるのは、“次に来るもの”は現時点では受容されていないということです。流行に乗ってもフリーライダーにしかならないので、そうしたトレンドとは別で、自分が良いと思うものや、「やりたいからやる」ということを常に守るようにしています。
先日、寿司屋の格好をしたPVを出しましたが、ネタでしかないですよね(笑)。でも、そこにお金と時間をかけることで、自分の心理的な安全性やスペースが守られる。時代に合わせすぎないことを表明する意味もあって、こういうことをできるようにするために自分で会社をやっていたりするわけです。
何かしら自分のやりたいことを常にやっていないと、人に受けそうなことをやらされている感じになり、いずれ音楽がつくれなくなると思うんです。他者の評価軸を基準にすると絶対うまくいかないし、病んでしまうこともある。そういう先輩を見てきた経験もあるので、そこは大事にしていますね。
AIという“他者”との付き合い方
時代の潮流をつくる大きな要素のひとつにテクノロジーがあり、これは機材など音楽制作にも直結すると思います。この点についてどう考えていますか?
自分はテクノロジーなしに音楽を始められなかったので、基本的に肯定的ですね。サブスクやAIなどにしても抗っても意味はなく、その時々の技術の中で良いと思うものを判断していくしかない。
これは直感でしかないのですが、人間の脳は「モノ」だから再現可能だと思うんですよ。AGI(Artificial General Intelligence:汎用人工知能)も普通にできるんだろうな、いやだなぁと(笑)。ただ、その中で「人間性とは何か」がより明らかになっていくはずで、そこには興味がありますね。最近はAIツールを触りながら、人間の“実存”について考えることも多いです。

AIは、これまでになかった新しい“他者”とも言えます。今後は、人間が担ってきた批評やフィードバックをAIが代替することもあり得るかもしれないですね。
そういうこともあり得るよなと思ってしまうのが怖いですよね(笑)。最近よくAI歌唱ツールを使うのですが、僕の声のデータをもとにさまざまな声が出力されるんですね。でも、これらは人間が声帯を震わせて出すものとは違い、ある意味“無から生まれた声”なんですよね。それを「あの人の声だ」と受け止めるのは、よく考えるとかなりヤバいなと(笑)。
もう人間性が揺らいでいるわけですよね。最近は、良い曲だなと思ってクレジットを見てみたらAIがつくっていたということもあって、行き場のない気持ちになるというか、良かったということを誰にも伝えられない虚しさを覚えますね。
AIがつくったものを受容したり、消費することと、AIとともに何かをつくることでは、また感覚が変わってきそうですね。
そうですね。あとは、やっぱり先ほどの“矢印”の話が大事だと思っています。人間には肉体を通じて得た固有の経験があり、そこから表現の方向性が生まれるんですよね。AIによっていわゆる「ブルシットジョブ」のようなものは淘汰され、日記なども含めてテクニカルに文章を書くことも可能になると思います。
そうなると人間には、肉体を通じた経験や、そこから生まれる思想や発想というものにしか残らない。そして、それができることこそが芸術の面白さだし、そこにある“矢印”に魅力を感じる人間という存在は、メチャクチャ面白くないですか? そこに希望がある気がしていますが、それも最後には肉体を得たAIがやってしまうんだろうなと思っています。

tofubeats(トーフビーツ)
音楽プロデューサー・DJ
1990年生まれ。2007年頃よりtofubeatsとしての活動をスタート。2013年に「水星 feat.オノマトペ大臣」を収録した自主制作アルバム「lost decade」をリリース。同年、森高千里をゲストボーカルに迎えた「Don't Stop The Music feat.森高千里」でワーナーミュージック・ジャパンからメジャーデビュー。その後、6枚のフルアルバムの他多数の音源をリリース。ソロでの楽曲リリースやDJ・ライブ活動はじめ、さまざまなアーティストのプロデュース・客演、映画・ドラマ・CM等への楽曲提供から書籍の出版まで音楽を軸に多岐に渡る活動を続けている。最新作はTBSラジオ「アフター6ジャンクション」内で急遽スタートさせたラジオドラマ「寿司スナイパーオカミ」のサウンドトラック『寿司スナイパーオカミ Original Sound Tracks』。収録曲「心のターゲット」のMVはスタジオ石が監督した。今年10月から11月にかけては、全国5都市6公演をめぐるジャパンツアー「tofubeats JAPAN TOUR 2025」を開催。2025年、主宰レーベル/マネジメント会社HIHATTは10周年を迎える。

