常時接続の時代をどう生きる?──哲学者・谷川嘉浩が考える、公/私の境界と“素朴さ”の力

取材・執筆:原田優輝
撮影:衣笠名津美
編集:瀬尾陽(awahi magazine編集部)

誰もがスマホやSNSを使いこなす常時接続の時代、私たちは他者から侵されない「プライベート」な領域を自分の中に育むことが難しくなっています。『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の著者である哲学者・谷川嘉浩さんは、SNSが公と私の境界を大きく変え、パブリックにおける評価や社交のルールが、心の内側(=プライベート)を侵食していると指摘します。

SNSや世間(=パブリック)における自分のイメージを守るため、無難な振る舞いや選択を重ねる現代人は、本来あるべき“公”と“ 私”の回路を断ってしまっているのかもしれません。そこに漂う無力感や息苦しさをどう乗り越えるか。そのヒントとして谷川さんが語ったのは、自分の中に「素朴さ」を見出すことでした。

Share

公/私の概念は意外と新しい!?

谷川さんは、著書『スマホ時代の哲学』の中で、スマホやSNSによって人や情報とつながり続ける「常時接続」の世界で失われてしまった「孤独」を取り戻すことについて論じています。SNSやスマホを通じて「パブリック」とつながるだけでなく、「プライベート」な享楽を追求することの重要性を説かれ、そのアプローチとして「趣味」を持つことを提唱されていますよね。今日は谷川さんと、「パブリック」と「プライベート」のあわい(間)についてお話しできればと思っています。

『スマホ時代の哲学』の中でも書きましたが、現在につながるパブリックとプライベートの境界は、18世紀後半に生まれたと考えることができます。その時期に、工業化社会が到来し、人々が階級を超えて交流するようになり、「社交」の領域が確立してパブリックな領域が生まれました。他方で、文学ジャンルとして「小説」が確立されました。小説というジャンルの確立に象徴されているのは、必ずしも行動と一致しない人間の心理や内面の葛藤が文学の主題になったという変化です。

もちろん、それ以前にも人間は内面を持っていましたが、それこそが描写に値するものだという発想は一般的なものではなかった。それまでの物語は、英雄譚のように単にトラブルが起こり、それを解決するというシンプルな構造が主流でした。人の内面に潜む、外からは伺い知れない心の動き自体が重要だという考え方は、ここ100~200年で生まれたトレンドなんです。

要するに、人間が抱える複雑な内面が主要な関心事になることと並行して、多様な人と上手く交流する「社交」が成立し、しかもそれらが切り離されて対置されるようになった。もちろん、「ここからがパブリック」「いまからがプライベート」と明確に線引きできるわけではありませんが、公/私という概念が生まれたのはこの頃だと考えています。

そこから人々はパブリックとプライベートのあいだで葛藤し続けてきたのだと思いますが、近年は急速にパブリックの領域が拡大してきているのでしょうか?

そう感じますね。おそらく2010年代以降、一気に変化してきたのではないかと思います。つまり、みんながSNSを使うようになってからということですが、SNSを通じて私たちがしていることは、心を露出することですよね。初期のTwitterなどでは、「◯◯なう」「◯◯だん」といった形で自分の行動を報告する投稿が多かったのですが、次第にいま考えていることを面白おかしく伝えるような形へと変わっていきました。これは、本来は舞台裏に収まっていればよかったものを、わざわざ表に出してアテンションを得ようとする行動とも言えます。最近は、揉め事や喧嘩の様子がYouTubeなどのコンテンツでも増えていますが、これも本来はプライベートでよかったはずの出来事がパブリックに放流され、プライベートの領域がパブリックに侵食されている例だと思います。

リアリティショーなども、プライベートがパブリックになったコンテンツと言えそうですね。

そうですね。ある程度筋書きが用意されているにせよ、本来はフィクションでよかったはずの内容を、プライベートで起こっている“本当の話”として私たちは享受しています。こうした変化は、この10年ほどで急速に強まってきたものだと考えています。

SNSが公/私の線引きを “バグらせる”

谷川さんは著書の中で、プライベートを他者から切り離された領域として語られていますが、人と人のあいだにもプライベートな関係は存在します。恋愛などはその一例ですよね。

そうですね。プライベートとパブリックという言葉は哲学でも多義的で、どんな場面にも汎用的に使える絶対的な意味や線の引き方があるわけではありません。日常的には、家族や恋人、気心の知れた友人の範囲を「プライベートな関係」と言うことも多いですよね。

私が研究している哲学者のジョン・デューイは、個人でも集団でもいいのですが、ある行為の影響がその当事者(たち)内に閉じられていると判断されるものを「プライベート」と定義しています。例えば、「今日、ハンバーグを食べた」みたいな話です。逆に、ある個人や集団の意思決定の影響が広く及ぶと判断される時、それは「パブリック」だとされます。その観点で言えば、政治家の立ち話は一見プライベートに見えても、その行為や決定が社会に影響を与えるため、パブリックになるわけです。

ただ、例えば誰かのお弁当のつくり方や結婚式の引き出物の選び方がSNSで拡散して論争を引き起こすことがありますよね。でも、それが社会に影響を与えるかというと、私はそうではないと思います。こうした点からも、プライベートとパブリックの線引きがSNSによって“バグらされている”と言えるかもしれません。

本来は社会に影響を与えないはずの事象が、SNSによってパブリックにさらされることで、それがプライベートだった時には生じなかった変化が起こることもありそうですね。

私たちは「誰かから受ける影響」を広く見積もりすぎているのだと思います。ただ、影響の範囲について議論しようとしても、「私はそう思う」と言われてしまえば、そこで終わってしまう。だからこそ、私が「孤独」というテーマについて語る時に意識しているのは、「心の内側」と「それ以外」という区切りでプライベートとパブリックを捉える視点です。冒頭でお話しした社交と心の内側の関係は時代によって常に変化してきましたが、現代においては、SNSで可視化された評価が、その人の内面とうまく接続しないまま流通している場面が多く見受けられます。

2000年以前は人間の「心の闇」のような部分が強調され、その内面を知りたいけれど分からない、という感覚で語られていたと思います。でも、いまは「心の闇」については語られず、「サイコパス」として片付けられてしまう。心の内側を理解しようとせず、「コイツは心が壊れている」と雑に認識する傾向が強まっているように思います。

「心の闇」というのは、その人にとって大切なものだという感覚もあります。他者と共有されない苦悩やモヤモヤの中にいる孤独な時間は、とても大事なものではないでしょうか。

そうですね。心の内側がなくなったわけではないのですが、私たちはそれを外に出すことを当たり前にしていますよね。高瀬隼子さんの小説には、それが象徴的に描かれています。高瀬さんはしばしば、「いい子」という言葉を用いるのですが、その「いい子」は内心では愚痴をこぼしつつ、コミュニケーションでは良い顔をしているんですね。外では無理を重ねていて、その振る舞いと自身の内面との交流がなくなってしまっている。プライベートな内面とパブリックな社交が分離し、そのことに葛藤するわけです。

かつては公的なことと私的なことの交流の回路が担保されていて、だからこそ「これが自分の内面だ」と自覚できたと思いますが、内面をどんどん切り売りするうちに、「明け渡さない自分の内面」のラインが分からなくなってしまう。社交というプレイ領域で求められるルールが「いい子であること」になっていて、それに当てはまらない内面は丸ごとどこかへ追いやられてしまうんです。何か嫌なことがあっても、それをプライベートにどう持ち帰ればいいのか、その連絡の仕方が分からなくなっている。そんな状況が高瀬さんの小説では描かれているんです。

相手を傷つけたくない、良く思われたい、失敗したくない。こうした感情や振る舞いは、社交に誠実であろうとするほど自然に生まれるものですが、それを内面と極端に切り離してしまうと、かえってしんどくなってしまうんですよね。

不安から生まれた「社交」のルール

SNSによって世間からの評価が可視化されやすくなったことで、失敗やリスクを犯すことへの恐れも強まっているように感じます。

炎上のリスクがあるからですよね。ポジティブな評価もネガティブな評価も同時に集まるSNSでは、一般の人であっても膨大な数の人たちに叩かれることが頻繁に起こっていますよね。誰かの振る舞いに対する非難が日常的に視界に入ってくることの影響はかなり大きい気がします。誰だってリスクは避けたいですし、あえて失敗を選びたい人はいないと思うんですよ。

例えば贈り物にしても、失敗したくないと思うのは当然です。ただ、その気持ちが強すぎると、贈り物は楽しいものだという素朴な感覚を見失ってしまうことがある。本来、贈り物はプライベートな感情を贈る行為のはずですが、「相手によく思われたい」「センスが良いと思われたい」「安物だと思われたくない」といった社交的でパブリックな欲望に乗っ取られると、贈り物そのものが少し辛いものになってしまう。そうなると、本来やりたかったことや伝えたかったことからは離れてしまいます。

リスクを恐れる結果、社交のルールやマナーに従うことが最も合理的な選択になってしまいますよね。

結婚式なんかはわかりやすい例かもしれません。「お祝い」と「無難さ」は本来まったく関係がないはずです。ご祝儀をいくら包むか、どう包むかというのはあくまでマナーであって、本質的にはお祝いの気持ちがあればいいはず。社会的なマナーやルールというのは、結局、私たちの不安から生まれているのだと思います。

選択をすることは本来自由であるはずなのに、その選択によって誰かが傷つく可能性もあるわけですよね。例えば、ある男の子がスカートを履きたがった時、家庭ではイエスと言えたとしても、学校ではどうか。その葛藤は無限に続くわけですよね。多様性の時代とはいえ、「男らしさ」「女らしさ」というイメージはいまだに根強くあります。そうした「型」があることで、ズレが「個性」として受け止められる側面もありますが、一方でそこには傷つく可能性も伴う。これは結論が出ない難しい問題ですよね。

SNSでの炎上事例などを見るにつけ、余計なことをしない方がいいという“諦めモード”が作動しているように感じます。それが「失敗しない確率の高いことだけを選ぶ」という若い人たちの行動にもつながっているかもしれません。

学校や家庭で、大人が下の世代とどう関わってきたかを思い返すと、それも仕方がないことなんだろうという気がします。大人は常に矛盾したメッセージを発していて、「自由に意見を言いなさい」と話しながら、実際には「正解」を要求しているんですよね。そうなると、何も言わないのが正解だと捉えられてしまうし、自分が正しいと思うことを選び続けることで悪目立ちしてしまうこともある。だから、正解が確実にわかる時にたまにそれを口にするような、いわば空気を上手く読める人が評価される構造になってしまうんです。そうなると、沈黙を選ぶのが最適解になる気持ちはわかります。

同じことが大人の世界でも起こっていますよね。例えば、ビジネスの世界では「両利きの経営」などと言って、現業だけでなく新規事業にも取り組みましょうとアイデアや改善案が求められますが、実際には突飛なことは受け入れられないんですよね。想定を超えない、ルーティーンを大きく変えない範囲で受け入れやすそうなアイデアが求められる。そうなると無難なことしか出てこないし、採用されもしない。これは環境から学習した「無力感」としか言いようがないのかもしれません。

自分の中に「素朴さ」を持つこと

パブリックな外交的振る舞いと、プライベートな心の内側が分離していく中で、両者をつなぎ直すためにはどんなことが必要になるのでしょうか?

そうですね……「素朴さ」というものが大事になってくるのではないかと思っています。かつて小説家の中野重治が『素樸ということ』というエッセイを書いているのですが、その中で「自分はずっと素朴さを目指している」と語っています。これについて哲学者の鶴見俊輔は、「単純な線を引くこと」だと指摘しています。それは単純に見えるけど、とても難しいという文章も、鶴見や中野は書いているんですね。

単純な線を引かなければ見えないこともあるし、現状肯定で終わってしまうことも多いと思うんです。例えば、不確実性の高い時代において、「わからなさを引き受けること」「複雑なものを複雑なまま理解すること」が大事だとよく言われますよね。でもそれだけだと、「世界は複雑だよね」と現状肯定で終わってしまいがちです。現在のウクライナの問題にしても、「難しいよね」という話にしかならない。もちろん、個人でできることはなかなかないわけですが、そこで大事になるのが、「素朴さ」みたいなことだと思っているんです。

不確実性に満ちた世界と向き合うための力として語られることが多い「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉がありますが、その先に「素朴さ」というキーワードがあるというのは面白いですね。

複雑性や不確実性は現代に限らず、いつの時代も存在するものです。それを単純化せずにとらえることは大切ですが、同時に、素直に理想を大切にする「素朴さ」を持たなければ、複雑さに引き回されてしまうと思うんです。

先ほどの贈り物の話で言えば、贈り物にまつわるルールやメンツ、センスなどの複雑さを前に、「相手に喜んでほしいな」「おめでとうの気持ちを形にしたいな」などと素朴に考えられるかどうか。学校や会社でのコミュニケーションも面倒だと感じたり、周囲に理解されていないと思ったりするかもしれませんが、他人の判断や行為を悪意を持って解釈せずに「あの人も疲れていたから、さっきはあんなことを言ったんじゃないか」と素朴に状況を受け止められるか。そうした素朴な態度がなければ、心の内側と社交的振る舞いの分離は広がっていくばかりなんじゃないかと思うんです。

「素朴さ」を持つことは、物事を単純化することと、世界を複雑なまま受け止めること、まさにそのあわいにある世界への向き合い方になるのかもしれませんね。

中野は、「自分は素朴な人間ではなかった」と語っているんですね。だからこそ、「自分の中の素朴さに立ち返りたい」と願った。中野は生涯、失敗や反省を繰り返しながら葛藤を続けた人ですが、そんな面倒くさい人が「素朴さが大事だ」と言うわけです(笑)。

世界はどうしたって複雑なので、おそらく、素朴でありたいという思いがあると葛藤は失われないし、自分の行為も割り切れないものになります。実際に、自分なりに大切にしたい「素朴さ」を見つけると、むしろコミュニケーションは混乱すると思うんです。でも、その割り切れない自分をつくる方法が「素朴さ」だと、中野は考えていたのだと思います。

これは冒頭で触れた「小説的な葛藤」にもつながります。現代では、この葛藤と向き合うための選択肢が、世界を単純化するか複雑なままにするかして適当に納得する、あるいは社交と内面を分離することで葛藤を回避するものになってしまっている。けれど、自分の中に「素朴さ」を見つけ、そのことで生まれる葛藤を引き受けることこそが、パブリックとプライベートをつなぐ回路になるのではないでしょうか。

谷川嘉浩(たにがわ・よしひろ)

哲学者

1990年生まれ。大阪経済法科大学非常勤講師、本学非常勤講師、日本学術振興会特別研究員(DC2)、本学特任講師を経て、2023年から本学専任講師。『スマホ時代の哲学』『信仰と想像力の哲学』『専門分野の越え方』など著書多数。講演やワークショップもしばしば行う。日本哲学会、応用哲学会、日本社会学理論学会などに所属。

(特集)

あわい(あわひ)

物と物、概念と概念、そして人と人の“あわい(あわひ)”。変化する“交わり合い”から、新しい関係性づくりのヒントを探っていく。

View More