瞬間を言葉でピン留めすることで、自分だけの「世界」を立ち上げる。言葉、あるいは日記に宿る「呪術性」──小野純一×古賀及子

執筆:生湯葉シホ
撮影:廣田達也
編集:小池真幸/瀬尾陽(awahi magazine編集部)

家族から投げかけられた何気ないひと言でその日の気分が変わったり、初めて読んだ本の一節にどうしようもなく励まされたり。他者から贈られた言葉がきっかけで大きく心を動かされる体験を、私たちはきっと誰しもしたことがあるはずです。

『僕たちは言葉について何も知らない:孤独、誤解、もどかしさの言語学』(NewsPicksパブリッシング)などの著作を持つ言語哲学者の小野純一さんは、言葉が持つ「一定のイメージを呼び覚ます力」を“呪術”と定義します。この呪術というレンズで言葉を覗き込んでみると、何が見えてくるのでしょうか?

対談相手は、『私は私に私が日記をつけていることを秘密にしている』(晶文社)、『よくわからないまま輝き続ける世界と 気づくための日記集』(大和書房)といった日記文学の書き手として注目を集めている古賀及子さん。言語が持つ呪術性や贈与性をテーマに、お二人にお話ししていただきました。

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日記を通じて立ち上がる「世界」

古賀

小野さんの本『僕たちは言葉について何も知らない』を本当におもしろく拝読しました。対談のお話をいただいて、言葉の贈与性や呪術性という点も踏まえて読んだんですが、まったく知らないことが書かれているというよりも、自分があらかじめ知っていたことをよりクリアにしてもらったかのように感じたんです。贈与とか呪術みたいなものって、我々が生活している中で本能的には感じているのかも、という気持ちになりました。

小野

ありがとうございます。僕は古賀さんの本、特に最新刊の『私は私に私が日記をつけていることを秘密にしている』は、まさに贈与について書いていると思ったんですよ。ご家族やお友達に柿を渡すとか本を返しにいくとか、「私」を介した関係の循環についてしばしば言及されていて。名づけることについても書かれていますし。

古賀

本当ですね。自分で気づいてなかったです(笑)。

小野

いや、おもしろかったです。日記にこんなにも可能性があるとは。

古賀さんの作品の中に、小野さんが言語の呪術性を感じられた部分はありますか?

小野

本の最初のほうで、日記に書いたことは「書かなかった現実」とは別の世界だと書かれていましたよね。すこし専門的な話になりますが、哲学には「可能世界」という考え方があるんです。その先駆けであるライプニッツという哲学者は、この世界は「可能世界のうちの最善の世界」であると表現したんですね。もっとさまざまな別の世界のあり方も可能であった中で、いま私たちが経験している世界がもっとも調和のとれた世界だと。

古賀

それを可能世界というんですね、たしかにピンときます。日記の世界は現実とは別の世界だと私が書いたのは、日記について「つらいこともあるでしょうに、日常のポジティブな部分だけを選んで書かれていてすばらしいですね」みたいなご感想をいただくことがあるからで。実際には、私が書いたことが私の日記の世界のすべてであって、書かなかったことはただ「ない」んですと言いたかったんです。人生にはあるかもしれないけど、私の日記にはない。

小野

私たちは、いま生きている世界のうちの一部しか経験できないわけですよね。世界を構築していくのが言葉の役割だとすると、「自分はこれを経験している」と認識するには言葉にせざるをえない。自分でしか経験できない自分の世界を生き生きと立ち上げ、それを日記という形で開示していると考えると、古賀さんは日記を通して言葉の呪術性を常に実践されているんだと思うんです。 

しかも古賀さんは、自分が日記に求める機能は記録ではないと言っている。日頃から詩の姿勢でいたいと書かれているんですよね。たしかに詩という言葉がピタッと当てはまるなと。

古賀

やっぱり日記を書いていると、文を紡ぐという行為は如何ともしがたく呪術だという実感が湧いてくるんですよ。

小野

日記って自分が体験した自分だけのプライベートを公開することで、自分の世界を相手にも体験できるようにしているんですよね。哲学の訳し方ではそれを「私秘性」と呼んだりもするんですが、私秘性を開示することでメタレベルのコミュニケーションになっている。読者は自分でもありえた別の日常を生きることになるし、それを取り込んで「あ、こんなふうに言葉にするんだ」と自分の内面世界を広げられるわけで。

古賀

メタレベルで私秘性を差し出す、ということを日記でやるのが少しトリッキーなんですよね。日記と比較したときに、エッセイの場合はもうすこし“作品”レベルが高いと思うんです。エッセイがおもにエピソードと論考からできているとすると、日記はより、とりとめのなさや唐突さみたいなものが許されている印象で。でもそれを作品として「どうぞ」と手渡すからこそ活発なコミュニケーションが生まれて、読者の内面世界が広がるのかもしれないなといまお話を伺っていて思いました。

言葉はもっとも根本的な贈与である

小野

古賀さんが書かれているものは「日記文学」ですよね。日本においては古くから日記文学というジャンルがあったわけですが、古賀さんの作品は平安時代から始まる日記文学の伝統に脈々と連なっていますよね……みたいなことってやっぱりよく言われますか?

古賀

いえ、それはあんまり言われたことがないかも(笑)。私はもともとインターネットで文を書いていたので、インターネットの表現のいちばんハードルの低いところが日記なんだろうなとは思っていました。そういうことはよく聞きますね。

小野

なるほど。あまり西洋と東洋を単純に二分化するような言い方はよくないんですが、あえて大きく分けるなら、すべてのものに通底する普遍的なものを見ようとする西洋の思想に対して、個別のものにかけがえのなさを求める思想って東洋的だと思うんです。

その流れは日本の文学にも脈々と受け継がれてきていると思うんですが、一方で言葉にするということは一般化することじゃないですか。古賀さんはそのせめぎ合いを意識して書かれていますよね。個別のものへのまなざしが至るところにあり、それを一般性に回収しないように意識されている。

古賀

あ、おっしゃる通りです。いつも新鮮でふつうではなく、驚くように書きたいという思いがあります。普遍化せず、一つひとつのことに「変なの」って思いたいんです。

小野

ちょっと強引に話を繋げてしまうかもしれませんが、自分の母語って自分がつくったものではなく、与えられたものですよね。これっていちばん根本的な贈与だと思うんですよ。

古賀

うわ!本当ですね。

小野

言葉があることによって、初めて他者や世界が立ち上がってくるわけじゃないですか。たとえばコップを見ている瞬間って、「見ていること」と「コップそのもの」には本来、区別がないと思うんです。けれど「あ、コップだ」と意識して私たちはコップを手に取るわけで、そこには常に意味が介在している。

言葉が与えられることによって自分の世界や他者というものが初めて成立するとしたら、お金や時間もそれと同じだと思うんですよ。コップという言葉がどのコップにも当てはまるように、貨幣もどの貨幣であっても記号としては成り立つ。時間も同じで、どの瞬間に対しても「いま」と呼べる。けれど実際にはすべてのコップやすべての瞬間が違っていて、言葉によってその世界が成立している。私たちはそういった贈与の中で生きているんだと思うんです。

古賀

わかります。私も、知覚に言語が関わっていることの一瞬一瞬を取り出すことによって、それを普遍化させないようにしようとは考えている気がするんです。つまり、コップをコップと思わないようなことをし続けていると、日記が「今日は楽しかった」の1行では終わらなくなる。転がるように言葉が出てきて、たった1日のことが1万字になり、2万字になる……ということが起こるんだと思います。

小野

古賀さんの日記のタイトルに「世界が変わる、ここが地点だ」という言葉がありましたけど、まさにそれですよね。瞬間を言葉でピン留めすることによって世界を立ち上げている。それこそが言語的な呪術の効果だと思うんです。

古賀

私、今日のお話の最初のほうで「文を紡ぐことは呪術だという実感がある」って言ったと思うんですけど、きっとそういうことだったんですね。納得しました。

事象が「見て見て!」と名乗りを上げてくる

個人的には古賀さんの本の中で、 “名乗り”について言及されていた日記が印象的でした。星野源がステージで言う「こんばんはー、星野源でーす!」に始まり、アイドルグループや漫才師など、さまざまなシーンにおける名乗りの意味を比較されていたのがおもしろくて。“名乗り”もまさに、言語が持つ呪術性のひとつではないかと感じたのですが。

古賀

星野源さんが言う「こんばんはー、星野源でーす!」は独特だとずっと思っていたので、一度きちんと書きたくなって(笑)。ステージに立つと、アイドルも漫才師も同じように「自分は〇〇です」と名乗るんだけど、その意味も役割も違うわけですよね。漫才師の名乗りは“領域展開”の意味が強くて、アイドルの名乗りは“プライベートな合図、符丁”じゃないかと日記には書いたんです。

小野

武士も戦いの前には必ず名乗りますよね。古代アラビアでは戦争のときに、部族を代表する詩人が前に出て詩を読む慣習があって、その出来栄えの良し悪しは勝敗を左右するくらい重要だったらしいんです。それがまさに言葉の呪術性だと説明されていますね。

古賀

へえ~!

小野

アラビアの詩人は“個物”にこだわるんです。普遍的なものではなく、具体的なものをそのままにありありと描く。日本も同じで、なくなっていくものやかけがえのないものに目を向ける伝統がありますよね。……あ、ということは、古賀さんが実践されている「事象がそのまま立ち上がるように書く」というやり方はつまり、自分ではなく事象が名乗りを上げるように書かれていると。

古賀

そういうことです、そういうことです。事象のほうが手を上げてくるように書きたい。

小野

日記の中で「明日が誕生日でないのが信じられない」とも書かれていましたけど、それってつまり、一日一日が特別なものだという意識を持っているということですよね。明日も誕生日が続いていきそう、みたいな感覚ってふつうはあまり持たないと思うんです。

古賀

日記に書いたのは、たしか今年の誕生日のことだったのかな。大人になったからか、誕生日をある程度もうやり慣れたような感覚があって。今年は特に、誕生日としての晴れ晴れしさが板についてふつうだったから、これが明日も続かないのが不思議、みたいな感覚があったんです(笑)。だから誕生日のような日に限らず、毎日を特別にしよう、一つひとつを尊ぼうとしてムキになっているわけです、私は。

小野

でも実際に、いろんなものがその日その日でいろんな名乗りの上げ方をしてくるわけですよね。

古賀

そうです、「見て見て!」って。人生を長くやっていると結局、何かが終わっても最終回じゃないじゃないですか。誕生日が終わっても、結婚したって子どもが生まれたって最終回はきませんよね。どうせ明日も目が覚めちゃうからやっていくしかないと思うと、徐々にそうなっていきますよね。

小野

さらにいうと、古賀さんは個物に目を向けるだけではなく、その一つひとつの中に「無限」を見ているのがおもしろいですよね。日記に“私のあずかり知らないことの無限に感じ入る”と書かれていたところがありましたけど、特定の経験をした上で、その外に立ち上がる知りえないことに“無限”を見ている。

古賀

そうですね。なんの目印もないと茫漠として何もないだけですけど、そこにひとつ旗が立つことで、その周りに存在する無限が初めて見えてくるんですよね。

自分を外側から見る「もうひとりの自分」を育てる

言葉が持つ贈与的な側面についてももう少し伺いたいです。古賀さんは特に子育てをしている中で、言葉の贈与性について考えることが多いとお聞きしました。

古賀

子どもと向き合っているとどうしても、自分のひと言で相手の人生が変わる可能性があるということを考えてしまうんです。自分自身も、人から言われたひと言にものすごく大きな衝撃を受けるという体験は何度もしたし、不意に「私、まだあんなこと覚えてるわ」と思い出すこともあるじゃないですか。それってポジティブにもネガティブにもなりうる。

だから、子どもとふつうにコミュニケーションをとっている中でも「あ、もしかしたらこれが相手にとっては一生覚えている言葉になるかもしれない」みたいなことを時折思ったりはします。実際の答え合わせは私にはできないでしょうから、その言葉が愉快で豊かなものだといいなとは思いますよね。

「このひと言で相手の人生が変わる可能性がある」というのは、究極的にいうと人とのコミュニケーション全般に言えることかもしれないですね。一度しか会ったことのない相手にさえ、自分があずかり知らないところで何かを贈与している可能性もある。

小野

そうですね。「あのお店は店員さんの対応がすごく悪かったからもう行かない」みたいなケースも同じですよね。何かが違えば、そうでない世界もありえたわけじゃないですか。

古賀

そうでない世界もありえた、というのは本当にスリリングですよね。

小野

思い切ってまた同じお店に行ってみたら、実はとてもいい店員だったという可能性もありますよね。そういうときに、自分を外側から見るもうひとりの自分がいるといいんじゃないかなと思います。仮に店員から印象の悪い言葉を投げかけられたとして、そこにピンポイントに旗を立てて「嫌な店員だ」と決めつけてしまうと、先ほど話していたような他の“無限”には目が行かなくなってしまう。

でももうひとりの自分が「あの日はたまたま機嫌が悪かったのかも」とか「嫌な感じに聞こえただけかも」と思えるようになると、言葉によってついた傷を自分で更新できる機会が生まれる可能性もあるじゃないですか。

古賀

実践的!でも本当にそうですね。そういう冷静な自分がうまく立ち働いてくれることも、ときにはありますもんね。

小野

ある意味、自分で自分にツッコミを入れるというか。だから、そういうもうひとりの自分を育てられるといいかもしれないですよね。

小野純一(おの・じゅんいち)

自治医科大学医学部准教授。専門は哲学・思想史。東京大学大学院博士課程修了。ベルギー・ゲント大学研究員、東洋大学国際哲学研究センター客員研究員などを経て現職。著書に『井筒俊彦 世界と対話する哲学』などがある。

古賀及子(こが・ちかこ)

1979年東京生まれ。エッセイスト。著書に日記エッセイ集『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』(素粒社)、『よくわからないまま輝き続ける世界と 気がつくための日記集』(大和書房)、エッセイ集『好きな食べ物がみつからない』(ポプラ社)、『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』(幻冬舎)などがある。